何ぞえさまの暇乞い むかし、むかし、あるところに、沖を眺めては、海の向こうの異国の事を憧れて居った、一寸変わった男が居ったそうな。伍平と申した其の男は、早朝に浜に出ては、何か珍しい物が流れ着いて居無いか観て廻るのが日課で有ったとか。時には珍しい貝殻が打ち上がったり南国の椰子の実が流れ着く事も有ったそうな。 酷い嵐が過ぎ去った翌日の早朝、とんでもない物が浜に流れる着いて居るのを観付けてしもうた。人の死体の様でも有った。恐る恐る観ると、女の様でも有ったが微かに息が。御婆さまは伍平が女を背負うて帰って来たのをみて、吃驚こいてしまった。御婆さまは何を思ったのか突然、女をひっぱたいてしまった。「何て酷い事をするか」御婆さまは伍平を部屋の外に追い出してしまい、着替えをさせる積もりらしい。どうやら女は異国の女らしい。どうやら南蛮の船が沖で沈んでしまったらしい。女は自力で浜まで泳ぎ着いたので有る。女は暫くは生死を彷徨って訳の分ら無い譫言を言って居ったが次第に快方に向かった。 次の日の朝、やっと布団の上に起き上がれる様に迄回復した。重湯の御椀を受け取って。 「此れは何ぞえ、食せるのか」女は初めて口をきいた。伍平は其の一言を聞いて、余程嬉かったのか「何ぞえと言ったぞ」と言って、走り廻ってしまった。 余程珍しいのか。箸を観ては「此れは何ぞえ」聞き捲ったので有った。 「もし、御無禮仕り申しとう御座りまする」「御通辞を」「はあ、是、何処へ帰る積もりじゃ、ああ、おつうじか、はばかりか」どうやら厠に行きたく成ったと思ったらしい。 「其処にしゃがんで放きおし、両端を汚すで無いぞ」 豆腐を観ては「此れは何ぞえ」海苔を観ても「此れは何ぞえ」鮑を観ては「此れは何ぞえ」銭を見ても「此れは何ぞえ」と口癖の様に聞いた。 人と鉢合っては「御無禮仕りました」人と別れる時も「御無禮仕ります」何処で変な言葉を覚えたのやら。異邦人の女の愚痴の聞き役の借り猫の黒猫の玉は聞いた事の無い異国の言葉で話かけられても一向に気に成ら無いらしい。 「何ぞえさまは元気ですかいの」「何ぞえさまの様な良い女が見つかって真に良かったのう」 村人の挨拶も伍平には何やらからかわれて居る様にも思えた。 女は早速御婆さまに誘われて海女の練習を始めた、人は海女の泪を知らず、静かな波の下の、逆巻く冷たい潮の流れを知らず、背後から迫る鱶の恐怖を知らず 何日か経った或日の事、網元に呼ばれて訪れるて見ると、網元が大事にして居る錠前付きの立派な金庫から態々取り出して見せてくれた物が在った。 「果て、此れは何ぞえ」「東洋の真珠の泪と言うてな、我が家の家宝ぞ、此れ一つで家が買えまするぞ」 「東洋の真珠の泪とな、貝の中から見つけ出したのか」「ところでじゃが、其方の乗って居た南蛮船の事じゃがのう、何とかして遺体を引き上げられないものかのう、冷たい海の底ではのう、余りに気の毒じゃ」「儂の願いが叶ったら、其れを其方に遣っても良いがのう」其の夜の事。 「網元は何か南蛮船の宝物でも探す積もりじゃろか、儲からぬ事には御金を出す人では無か」「宝物等積んで居ったのか」女は余程疲れ果てたのか、死んだ様に眠ってしもうて居った。 三日間あっちこっち探し廻ったが何も見つから無かったが、四日目に可也深い場所で船体が見つかった。どうやら熟練の海女なら石を擁いてなら潜れそうで有った。村の役人も訳け有って最初の内は見て見ぬ振りをして居った。丘の上の俄西洋墓地に墓の数が増える度に女は泪を流した。しかし永住は認められ無かった 網元が宝物を探して居るらしいと言う噂を聞いた役人は何やら動き出したが何も出て来なかった。見付かってから差し押さえる積もりらっしい。 人は余計な事を噂したがる者で在る。 「徐徐二年にも成るのう、徐徐御暇をせねばのう」「何を突然言い出すか、其方の家は此処しか無か、帰りたくても帰れぬぞ」「何時までも居ても構わぬのか?」「其ちらへ御無禮仕ても構わぬか?」 「其れでは御無礼仕る」伍平の寝床は冷たい海の底よりかは余程気持ちが良いらしい。 「何ぞえさまは太られましたたかのう」どうやら御子が出来たらしい。 伍平は慌てて、婚禮を挙げた。婚禮の日、奉行は何を血を迷うったか、網元を捕らえてしもうた。何にやら密貿易の疑いが有るとか。 女は恩有る網元を何とか助けようと、思い倦ねる毎日で有った。 或日事、伍平殿は何やら怪しげ風評を聞いて来た。どうやら長崎の出島のキャピタンが交易の御禮の言上の為に江戸に向かう一行が、近近街道を通るとか。キャピタンに御願いすれば、ヒョットして。 ひょんな事から、女は江戸迄同行しなければ成らなく成ってしもうた。江戸に着いたら着いたで通辞が急に病に倒れてしまい、急遽俄か通辞にさせられてしもうた。和蘭語、葡萄牙語も話せる程の女では有ったが。「ノープエド!」「ノープエド!」終に西国の御国言葉が出てしもうた。 御国の民族衣裳を着せられ、謁見の間に。 「大儀で有った」普通なら其れで終わる筈で有ったが。「ほう、女の通辞とは珍しいのう、其方の名は」「マリアと申します」「マリアとな、国に帰りたいで有ろうのう、気の毒な話じゃ、嘸かし余を恨んで居る事で有ろう、しかしのう、法は守らねば成らぬ、余が例外を許しては民に示しが着かぬ」「余が其方の亭主なら、七人の子供が欲しいものじゃのう、亭主の願いを叶えて見ようと言う気は無いものかのう」 「七人もの子で御座りまするか?」「余は嘘つきでは無いぞ、将来の為に念書を書いて置こう、将来大使の通辞として同行して国に帰れる時が来るかも知れぬぞ」 其れを真に受けた女は、伍平殿と子作に励んだ。「今宵も後無禮仕って良かか」「其方は病気では無いのか、一体何人の子を生んだら気が済むのじゃ」「神仏に祈る丈では子は出来ぬぞ、是、もっと性根を入れて御気張りなされまし」伍平殿は又、叱られてしもうた。 マリアは終に七人の子を産み落とし、末娘も家事の手伝いも出来る様に成った。亭主が亡く成ってからと言うものは、浜に出ては海の向こうを眺める日が多くなった、嘸かし祖国に帰りたいので有ろう。 或日、思いも掛け無い仕事が舞い込んだ。大使の通辞の仕事で有る。西国に帰れるので有る。 「如何有っても、帰ってしまいなさるかのう」 網元の形見分けで貰った大事な、大事な「真珠の泪」を売って旅費を作り、帰る事に成った。 「親も兄弟も最早生きては居るまい、住んで居た家も見知らぬ人が住んで居るで有ろうに、其れでも帰りなさるかのう、一度帰ったら、最早二度とは此処へは戻れぬのじゃぞ、此処には七人もの子が居ると言うのに、近々孫も生まれる程にのう」マリアの決意は固く。 マリアは丘の上の外人墓地に最後の別れをして。見送りの村人に。 「長い間色々有難う御座いました、其れでは皆様御無禮仕ります」二度と返れぬ長旅に発ってしまったので有る。 マリア・ヴエルベは荒波の中を浜まで自力で泳ぎ着いてから、艱難辛苦、網元に代わって荒くれ男を差配する迄に成ったが、仕事は息子達に任し、やっとの思いで、祖国の西国の大地を踏んだので有る。実に四十二年の歳月が流れてしまって居った。祖国で死ぬる為で有る。 何ぞえさまの暇乞いの悲願は叶えられたので有る。目出度し、目出度し。 2014−08−20−581−01−01−OSAKA |
HOME −−戻る 〓 次へ++ |