何処からの独立したやら독립문獨立門
犬も歩けば棒に当たると言う諺が有る。犬を飼った経験が無い人には、犬が棒みたいな物に怯え唸り牙を剝く事が理解出来無い。棒に当たる事が幸運の女神に出会うかの如くに思って仕舞う。恐怖が遺伝子に書き込まれ本能に成る為には何千年もの虐待が必要。ガラパゴスのイグアナは人を知ら無い。観光客が近づいても逃げ無い。奈良公園の鹿は鹿に文鎮を投げて殺して仕舞った三作を石子詰めの刑に処した春日大社の横暴も五代将軍の天下の悪法の生類憐みの令のお陰で有る。35年程度の虐待で反日が起きるは不可解で有る。志那の虐待で恐怖が遺伝子に書き込まれて居るので反中は決してしない。
赤子は親に教わら無くとも、蜘蛛や蜂や百足や蝮を毛嫌いする。囲炉裏の火は火傷をしてから恐怖を感じる。人がかって樹上生活をして居た事がそれで判る。最近原発訴訟が下火に成った。韓国の徴用工訴訟の異常さに気が点いたのか、北海道で実際にブラックアウトが起き、停電の恐ろしさが判ったのか?
韓国のソウルの郊外にフランスの凱旋門に似た独立門が立って居る。韓国人の何処からの独立かと聞けば、皆が皆、日本からの独立と答える。されど、独立門の碑文には清国からの独立と明文化されて居る、神様のお陰で独立出来たとか?
조선이몇해를청나라의속국으로있다가하나님덕에독립이되어조선대군주폐하께서지금은세계의제일높은임금들과동등이되시고, 조선인민이세계에서자유로운백성이되었으니, 이런경사를그저보고지내는것이도리가아니요, 조선독립된것을세계에광고도하며, 또조선후생들에게도이때에조선이분명하게독립된것을전하자는표적이있어야할터이요. 또조선인민이양생을하려면맑은공기를마셔야할터이요, 경치좋고맑은데서운동도하여야할지라.
朝鮮が数年を清の属国であるが、神のおかげで独立になって、朝鮮の君主陛下が今では世界の最も高い賃金と同等となら、朝鮮人民が世界で自由民になったから、こんな傾斜をただ見て過ごすことが道理がない、朝鮮独立したことを世界に広告もあり、また、朝鮮厚生にもこの時に朝鮮が明らかに独立したことを伝えようはターゲットがあるべきはずであり。また、朝鮮人民が養生をするには、澄んだ空気を飲むことからであり、景色良く晴れたところ運動もしなければあっ。(自動翻訳)
朝鮮が何年も清国の属国であったが、神様の恩恵で独立され、朝鮮大君主陛下が今は世界の首脳と同等な立場となり、朝鮮人民が世界にまたがる自由な人になったがゆえに、このようなめでたいことを無視するのは道理ではない。朝鮮が独立したことを世界に知らせ、また朝鮮の後生に、この時から朝鮮が永遠に独立したことを伝えるためにも表迹(表象)が必要であり、また朝鮮人民が養生するには新鮮な空気を吸い、景色が良く静かな場所で運動をすべきである。慕華館に新しく独立門を建て、その周辺を公園にして千秋万歳自主独立した公園であると伝える志である。
主な内容
清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
清国は賠償金2億テール[注釈 4]を日本に支払う。(第四条)
割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)
調印
大日本帝国全権弁理大臣伊藤博文(内閣総理大臣)
大日本帝国全権弁理大臣陸奥宗光(外務大臣)
大清帝国欽差頭等全権大臣李鴻章(北洋大臣直隷総督)
大清帝国欽差全権大臣李経方(欽差大臣)
협상
협상이이뤄진슌반로우 (2004년)
일본혼슈의최서시모노세키는도쿄로들어가기위한관문으로조선통신사도이곳을통해일본을왕복했다.
1895년 3월 19일청의전권대신리훙장이도착한후 1개월동안동아시아를뒤흔들게되는회의가개최되었다. 이런협상벌인장소는현재의간몬대교인근의슌반로우(春帆樓)라는요정이었다. 리훙장은이곳에서 300m 떨어진인조지(引接寺)에숙박을했다.
일본의대표로는조슈번출신의이토히로부미였다. 이미그들은 10년전이었던 1885년톈진에서조약을체결할때면식을익힌적이있었다.
1895년 3월 20일부터회담이시작되었다. 3월 23일일본은보병 1개여단을대만서쪽펑후제도에상륙시켰다.
3월 24일, 회담장에서숙소로돌아가던리훙장이테러를당했다.[1] 이후회담은중단되었다가 4월 8일부상에서어느정도회복한리훙장이회담장에다시돌아오면서급진전되었다.
4월 17일, 강화조약이체결되었다내용은다음과같다
청국은조선으로부터종주권을영구히포기하고, 조선의완전한해방을승인한다.
청나라는랴오둥반도, 타이완섬, 펑후제도등부속여러섬의주권및그지방에있는성루, 병기제조소등을영원히일본제국에할양한다. (제2조 3항)
청국은일본국에배상금 2억냥[2] 을지불한다. (제4조) 조약발효시점부터 7년이내에총 8회에걸쳐배상금을분납하고, 기일을지키지못하면 5%의연체이자를지급한다. (이돈은당시일본돈으로환산하여 3억 6천만엔이었고, 이것은청나라의 3년치예산, 일본의 4년반치예산에해당하는큰금액이었다.)[3]
청국의사스, 충칭, 쑤저우, 항저우의개항과일본선박의장강및그부속하천의자유통항용인, 그리고일본인의거주, 영업, 무역의자유를승인한다.
1895년 4월 17일청나라와일본사이에시모노세키조약이체결되었다. 이로인하여일본은청나라가조선에대해가지는권리를모두박탈시켜대륙진출의가장큰걸림돌이던청나라를효과적으로배제하였다. 패전국인청나라는이조약으로인해, 동아시아패권다툼에서일본에밀리게되었다. 배상금 2억냥을일본에지불하였으며, 랴오둥반도와타이완섬, 펑후제도등을할양하였으며, 일본의통상상의특권을인정하였다. 하지만 6일뒤러시아가독일, 프랑스를끌여들여삼국간섭으로저지시킨다.
交渉
交渉が行われたシュンバンロー(2004年)
日本の本州のチェソ下関は東京に入るためのゲートウェイとして朝鮮通信使もここを通じて、日本を往復した。
1895年 3月19日清全権大臣リフン枚到着後1ヶ月の間、東アジアを揺るがすようになる会議が開催された。このような交渉行った場所は、現在の関門大橋近くのシュンバンロー(春帆樓)という妖精だった。リフン章ここから300m離れた人工地(引接寺)に宿泊をしました。
日本の代表としては、長州藩出身の伊藤博文だった。すでに彼らは10年前だった1885年 天津で条約を締結したときに面識を身につけたことがあった。
1895年 3月20日から会談が始まった。3月23日、日本は歩兵1個旅団を、台湾、西澎湖諸島に上陸させた。
3月24日、会談で宿泊施設に帰ったリフン長テロを受けた。[1]以降の会談は中断されたが、4月8日の負傷である程度回復したリフン枚会談に戻ってきて急進展した。
4月17日、講和条約が締結された内容は、以下の通りである
清は朝鮮から宗主権を永久に放棄し、朝鮮の完全な解放を承認する。
清は遼東半島、台湾島、澎湖諸島などの付属の島々の主権とその地域の胸壁、兵器製造所などを永遠に日本帝国に割譲する。(第2条3項)
清は、日本国に賠償金2オクニャン[2]を支払う。(第4条)条約発効時点から7年以内に合計8回にわたって賠償金を分納して、期日を守らなければ、5%の延滞利子を支給する。(このお金は、当時の日本のお金に換算して3億6千万円であり、これは清の3年分の予算、日本の4年半値予算に対応する大規模な量であった。)[3]
清国のサス、重慶、蘇州、杭州の開港と日本の船舶の長江とその付属河川の自由通航容認し、日本人の居住、販売、貿易の自由を承認する。
1895年 4月17日清と日本の間に下関条約が締結された。これにより、日本は清が朝鮮に対して持つ権利をすべて剥奪させて大陸進出の最大の障害だった清を効果的に排除した。敗戦国である清はこの条約により、東アジアの覇権争いで日本に押されるようになった。賠償金2億両を日本にお支払いしており、遼東半島と台湾島、澎湖諸島などを割譲し、日本の通商上の特権を認めた。しかし、6日後、ロシアがドイツ、フランスを引き込ま三国干渉に阻止させる。
第一條:中國確認朝鮮國為獨立自主國家,朝鮮對中國的朝貢、奉獻、典禮永遠廢止。
第二條:下列地方之城壘、兵器製造所及國有物永遠讓與日本。一、遼東半島。二、臺灣全島及所有附屬各島嶼。 三、澎湖群島,即英國格林尼次東經百 九度起至百二十度止、北緯二十三度起至二十四度之間諸島嶼。
第三條:兩國各選派官員依據粘附本約之地圖,共同踏勘並確定遼東半島之劃界。
第四條:中國支付日本賠款2億兩白銀(約3億日圓)。
第五條:割讓土地內居民能任聽其遷移界外與變賣資產,唯條約批准2年後該地的居民酌宜視為日本臣民。
第六條:中國開放沙市、重慶、蘇州、杭州等口岸,及認可日本最惠國待遇。允许日本人在中國通商口岸设立领事館和工厂及输入各种机器。
第七條:日本在3個月以內撤回中國領土內之日軍。
第八條:中國承認日本佔領山東省威海衛三年,待中國還清賠款後才交還,如果費用支付不全,日軍不撤回,日軍軍費由中國負擔。
第九條:中國對日本人俘虜,不可虐待處刑,也不可對協助日軍的中國人士處刑。
第十條:條約批准日開始,停止交戰。
第十一條:條約由中日兩國批准,日本明治28年(1895年)5月8日,清光緒二十一年四月十四日生效。
朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
清国からの逃亡者を隠してはいけない。
日本とは旧来通り、貿易を行うこと。
清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品(20余種の物品とは具体的には、清国に朝鮮人美女、牛、馬、豚など各々3000などの物品のこと)を毎年上納すること。(出典:朝鮮王朝実録 仁祖録 仁祖十四年一月二十八日)
大清崇コ元年冬十有二月 ェ温仁聖皇帝 以壞和自我 始赫然怒 以武臨之 直擣而東 莫敢有抗者 時我寡君棲于南漢 凛凛若履春冰而待白日者
殆五旬 東南諸道兵 相継崩潰 西北帥逗撓峽内 不能進一歩 城中食且盡 當此之時 以大兵薄城 如霜風之卷秋蘀 爐火燎鴻毛 而皇帝以不殺爲武
惟布コ是先 乃降勅諭之曰 來 朕全爾 否 屠之 有若英馬諸大將 承皇命相屬於道 於是 我寡君集文部諸臣謂曰 予托和好于大邦 十年于茲矣 由予惛惑 自速天討 萬姓魚肉 罪在予一人 皇帝猶不忍屠戮之 諭之如此 予曷敢不欽承 以上全我宗社 下保我生靈乎 大臣協贊之 遂從數十騎 詣軍前請罪 皇帝乃優之以禮 拊之以恩 一見而推心腹 錫賚之恩 遍及從臣 禮罷 即還我寡君于都城 立召兵之南下者 振旅而西 撫民勸農 遠近之雉鳥散者 咸復厥居 詎非大幸歟 小邦之獲罪上国久矣 己未之役 都元帥姜弘立 助兵明朝 兵敗被擒 太祖武皇帝 只留弘立等數人 餘悉放回 恩莫大焉 而小邦迷不知悟 丁卯歳 今皇帝命將東征 本国君臣 避入海島 遣使請成 皇帝允之 視爲兄弟国 疆土復完 弘立亦還矣 自茲以往 禮遇不替 冠盖交跡 不幸浮議扇動 搆成亂梯 小邦申飭邊臣 言渉不遜 而其文爲使臣所得 皇帝猶ェ貸之 不即加兵 乃先降明旨 諭以師期丁寧反覆 不翅若提耳面命 而終未免焉 則小邦君臣之罪 益無所逃矣 皇帝既以大兵圍南漢 而又命偏師 先陷江都 宮嬪王子曁卿士家小 倶被俘獲 皇帝戒諸將 不得擾害 令從官及内侍看護 既而 大霈恩典 小邦君臣及其被獲眷屬 復歸於舊 霜雪變爲陽春 枯旱轉爲時雨 區宇既亡而復存 宗社已絶而還續 環東十數千里 咸囿於生成之澤 此實古昔簡策所稀覯也 於戯盛哉 漢水上流三田渡之南 即皇帝駐蹕之所也 壇塲在焉 我寡君爰命水部 就壇所搦ァ高大之 又伐石以碑之 垂諸永久 以彰夫皇帝之功之コ 直與造化而同流也 豈特我小邦 世世而永ョ 抑亦大朝之仁聲武誼無遠不服者 未始不基于茲也 顧搴天地之大 畫日月之明 不足以彷彿其萬一 謹載其大略 銘曰
石碑の評価
崔基鎬は、「1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。大清皇帝功徳碑は、1895年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は日韓併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった」と評した[8]。