尻拭い



 日本語には淑女が口にするに憚かれる恥ずかしい言葉が有る。尻拭いが其れに相当する。本来の意味より比喩的に使用される。世界近現代史の書物を紐解くと全世界を嘲笑の坩堝に化した珍事が有った、日韓併合で有る。当時大日本帝国は大国清国を破り、列国露西亜帝国を破った世界の一等国。其の二国が何を血迷うたか対等な関係で併合した。先に併合の違法性を問われる前に、世界中に大使を送り、併合の是非を問うた。世界各国は自国の国際条約や国際協定の存続を求たが、併合を否とする国は一国も無かった。実際当時の朝鮮には植民地化して搾取出来る物は何も無かった。皇帝は王族扱いにし、日本の娘と結婚させて居る。されど、植民地支配の三十五年間と学校で教える。血税の80兆円を溝に捨てた事に成り、一千年の怨みをかって仕舞った。後年米国のハーバード大学で世界の法律学者が集って、日韓併合の違法性を審議した事が有った。違法性無しの決議をした。されど、韓国の大法院は徴用工訴訟で日韓併合の違法性を指摘し、日本企業に賠償を命じた。火器管制レーダーは照射するし、戦犯企業のステッカーを貼付を義務図ける法案を発議。戦犯日王の息子は元従軍慰安婦のおばちゃんに謝罪せよと非礼。日本製品の不買運動。


 ★竹島不法侵入問題



 ★従軍慰安婦賠償と謝罪と慰安婦像建立問題



 ★女子挺身隊問題(朝鮮戦争時代の慰安婦との混同)



 ★徴用工賠償訴訟



 ★火器管制レーザー照射問題



 ★戦犯日王の息子は元従軍慰安婦のおばちゃんに謝城の非礼



 ★旭日旗非礼



 ★戦犯企業ステッカ貼付法案発議



 ★恥辱碑



 ★迎恩門
 手順
叩頭 (hengkin) とは額を地面に打ち付けて行う礼である。三跪九叩頭の礼では、

「跪」の号令で跪き、
「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「起」の号令で起立する。
これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」こととなる。

紫禁城の前庭での国事祭礼において、皇帝の前で臣下が一斉におこなった。また、琉球王朝や李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王が王都の郊外に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた。その郊外の地が琉球の場合は守礼門であり、朝鮮の場合は迎恩門である。

叩頭礼は本来、神仏や直系尊属に対して尊敬の念を示すために行われた礼であった。明の時代になって、大臣たちが皇帝に示す一種の礼儀として叩頭礼が始まったが、当時は「五拝三叩頭の礼」であった。藩属国の朝貢使が入京して皇帝に会うときも、この礼をすることが必要とされるようになった。満洲人は天に対する礼拝に三跪九叩頭の礼を用いており、清が北京に入って後、三跪九叩頭の礼が明代の五拝三叩頭の礼にとってかわった。

各国の対応

崔基鎬は、

1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。(中略)1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門[3]が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。

と評している[4]。

 ☆下関条約
 条約概説

1895年4月17日に調印された日清講和条約

1895年11月8日、三国干渉の結果、遼東還付条約に調印
主な内容
清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
清国は賠償金2億テール[注釈 4]を日本に支払う。(第四条)
割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)
調印
大日本帝国全権弁理大臣伊藤博文(内閣総理大臣)
大日本帝国全権弁理大臣陸奥宗光(外務大臣)
大清帝国欽差頭等全権大臣李鴻章(北洋大臣直隷総督)
大清帝国欽差全権大臣李経方(欽差大臣)
影響
伊藤博文全権が起草・調印したこの条約によって李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱して大韓帝国となり、第26代の高宗が中国皇帝の臣下を意味する「国王」の称号を廃して、はじめて皇帝と称することとなった[要出典]。
後にロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起こった。
開港開市の規定などについては、英仏などの欧米列強は既に最恵国待遇を得ていたので、日本も同じ恩恵に与ることが出来た。

なお賠償金のテール(両)は、1テール=37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。その後の三国干渉による遼東半島の代償の3000万両(111.9万kg)を上乗せして合計857.9万kg(現在価値(2011.4 日中銀取引相場価格)で銀1kgが12万円程度なので、1兆294億円前後。当時価格で日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後、現在の43兆円前後となり、当時の国家予算の4倍であることから日本の現在の国家予算を年100兆円と考えると400兆円前後にあたる)以上の銀を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせた。日本はこれを財源として長年の悲願だった金本位制への復帰を遂げた。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担になり、清国は更に弱体化した。


 主要内容
维基文库标志
维基文库中相关的原始文献:
馬關條約
注:日文條約中亦有稱中國當时代表為为大清帝國。

第一條:中國確認朝鮮國為獨立自主國家,朝鮮對中國的朝貢、奉獻、典禮永遠廢止。
第二條:下列地方之城壘、兵器製造所及國有物永遠讓與日本。一、遼東半島。二、臺灣全島及所有附屬各島嶼。 三、澎湖群島,即英國格林尼次東經百十九度起至百二十度止、北緯二十三度起至二十四度之間諸島嶼。
第三條:兩國各選派官員依據粘附本約之地圖,共同踏勘並確定遼東半島之劃界。
第四條:中國支付日本賠款2億兩白銀(約3億日圓)。
第五條:割讓土地內居民能任聽其遷移界外與變賣資產,唯條約批准2年後該地的居民酌宜視為日本臣民。
第六條:中國開放沙市、重慶、蘇州、杭州等口岸,及認可日本最惠國待遇。允许日本人在中國通商口岸设立领事館和工厂及输入各种机器。
第七條:日本在3個月以內撤回中國領土內之日軍。
第八條:中國承認日本佔領山東省威海衛三年,待中國還清賠款後才交還,如果費用支付不全,日軍不撤回,日軍軍費由中國負擔。
第九條:中國對日本人俘虜,不可虐待處刑,也不可對協助日軍的中國人士處刑。
第十條:條約批准日開始,停止交戰。
第十一條:條約由中日兩國批准,日本明治28年(1895年)5月8日,清光緒二十一年四月十四日生效。

 협상

협상이이뤄진슌반로우 (2004년)
일본혼슈의최서시모노세키는도쿄로들어가기위한관문으로조선통신사도이곳을통해일본을왕복했다.

1895년 3월 19일청의전권대신리훙장이도착한후 1개월동안동아시아를뒤흔들게되는회의가개최되었다. 이런협상벌인장소는현재의간몬대교인근의슌반로우(春帆樓)라는요정이었다. 리훙장은이곳에서 300m 떨어진인조지(引接寺)에숙박을했다.

일본의대표로는조슈번출신의이토히로부미였다. 이미그들은 10년전이었던 1885년톈진에서조약을체결할때면식을익힌적이있었다.

1895년 3월 20일부터회담이시작되었다. 3월 23일일본은보병 1개여단을대만서쪽펑후제도에상륙시켰다.

3월 24일, 회담장에서숙소로돌아가던리훙장이테러를당했다.[1] 이후회담은중단되었다가 4월 8일부상에서어느정도회복한리훙장이회담장에다시돌아오면서급진전되었다.

4월 17일, 강화조약이체결되었다내용은다음과같다

청국은조선으로부터종주권을영구히포기하고, 조선의완전한해방을승인한다.
청나라는랴오둥반도, 타이완섬, 펑후제도등부속여러섬의주권및그지방에있는성루, 병기제조소등을영원히일본제국에할양한다. (제2조 3항)
청국은일본국에배상금 2억냥[2] 을지불한다. (제4조) 조약발효시점부터 7년이내에총 8회에걸쳐배상금을분납하고, 기일을지키지못하면 5%의연체이자를지급한다. (이돈은당시일본돈으로환산하여 3억 6천만엔이었고, 이것은청나라의 3년치예산, 일본의 4년반치예산에해당하는큰금액이었다.)[3]
청국의사스, 충칭, 쑤저우, 항저우의개항과일본선박의장강및그부속하천의자유통항용인, 그리고일본인의거주, 영업, 무역의자유를승인한다.
1895년 4월 17일청나라와일본사이에시모노세키조약이체결되었다. 이로인하여일본은청나라가조선에대해가지는권리를모두박탈시켜대륙진출의가장큰걸림돌이던청나라를효과적으로배제하였다. 패전국인청나라는이조약으로인해, 동아시아패권다툼에서일본에밀리게되었다. 배상금 2억냥을일본에지불하였으며, 랴오둥반도와타이완섬, 펑후제도등을할양하였으며, 일본의통상상의특권을인정하였다. 하지만 6일뒤러시아가독일, 프랑스를끌여들여삼국간섭으로저지시킨다.



 ☆独立門
 朝鮮が何年も清国の属国であったが、神様の恩恵で独立され、朝鮮大君主陛下が今は世界の首脳と同等な立場となり、朝鮮人民が世界にまたがる自由な人になったがゆえに、このようなめでたいことを無視するのは道理ではない。朝鮮が独立したことを世界に知らせ、また朝鮮の後生に、この時から朝鮮が永遠に独立したことを伝えるためにも表迹(表象)が必要であり、また朝鮮人民が養生するには新鮮な空気を吸い、景色が良く静かな場所で運動をすべきである。慕華館に新しく独立門を建て、その周辺を公園にして千秋万歳自主独立した公園であると伝える志である。

 

 조선이몇해를청나라의속국으로있다가하나님덕에독립이되어조선대군주폐하께서지금은세계의제일높은임금들과동등이되시고, 조선인민이세계에서자유로운백성이되었으니, 이런경사를그저보고지내는것이도리가아니요, 조선독립된것을세계에광고도하며, 또조선후생들에게도이때에조선이분명하게독립된것을전하자는표적이있어야할터이요. 또조선인민이양생을하려면맑은공기를마셔야할터이요, 경치좋고맑은데서운동도하여야할지라.



 ☆英国の旅行家イザベラ・バードの朝鮮紀行記
 イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。

—イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f


 ☆リットン調査団のマッコイ少将の手記
  リットン調査団アメリカ代表のフランク・ロス・マッコイ陸軍少将
1932年(昭和7年)に宇垣一成・朝鮮総督に語った言葉。
「自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。
それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。

同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。
何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。

吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、
相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、
赭土(あかつち)色の禿山の下で、民衆は懶惰(らんだ)
の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた

然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、
皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、
農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し
平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、
駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、
治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、
民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、
満州に比べて実に隔世の観がしたのである。

これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、
歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを

卒直にお歓びすると同時に、
今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう。



 ☆大韓帝国皇帝の併合要請
 条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭
韓国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
朝鮮王朝実録/純宗実録/3年
邦訳
皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年八月二十九日 御璽[1]


 ☆日韓併合条約
 한일합방
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한일합방(한국병합, 영어 : Japanese annexation of Korea)는 1910년 (메이지 43 년) 8 월 29 일 '한국병합니관스루협약 "에따라일본제국이대한제국을병합하여지배하에두었다는사실을가리킨다. 조선병합으로도표기된다. 이후일본의한반도지배는일본제국이포츠담선언에의한무조건항복후에도엄격하게표현하면계속되었으며 1945년(쇼와20년) 9월 9일에조선총독부가항복문서에조인하기까지실질적으로는약 35년간지속되었다고본다.[1][2]

 韓国皇帝陛下と日本国皇帝陛下は二国間の特別親密な関係を考慮して、相互の幸福を増進させ、東洋の平和を永久に確保しようとし、この目的を達成したい場合、韓国を日本の国に併合することはよいことを確信していし、これに二国間の合併条約を締結することに決定した。

このため韓国皇帝陛下は、内閣総理大臣(內閣總理大臣)李完用(李完用)を、日本の皇帝陛下は痛感(統監)の自作(子爵)社内定義(寺內正毅、寺内正毅)をそれぞれ、その全権委員(全權委員)に任命すると同時に、上記の全権委員が共同で協議して下に少ないすべての条項を協定にする。

韓国皇帝陛下は韓国全体の一体統治権を完全にまた永久日本の皇帝陛下に譲与する。
日本国皇帝陛下は、前の規定に記載された譲与を受け入れ、完全に韓国を日本帝国に併合することを承諾する。
日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下とその皇后、皇妃と子孫たちにとってそれぞれの地位を応じ適切な敬称、威信と名誉を享受すると同時に、これを維持するのに十分な歳費を供給を約束する。
日本国皇帝陛下は、前の規定に加えて、韓国皇族と子孫のかなりの名誉と待遇を享受し、また、これを維持するのに必要な資金を供与することを約束しない。
日本国皇帝陛下は功労がある韓国人として特別表彰することが適当であると認められる場合について栄誉爵位を与えると同時に金銀(恩金)をズームします。
日本国政府は、前記録されたマージの結果として完全に韓国の是正を委任して、その地域に施行する法規を遵守する韓国人の身体及び財産に対して全面的な保護を提供し、また、その福利の増進を図る。
日本国政府は、省忠実新しい制度を尊重する韓国人に適切な資金がある者の事情が許す範囲で、韓国の帝国の管理に登用する。
この条約は、韓国皇帝陛下と日本陛下の裁可を受けたので、公布の日から、これを施行。

上記の証拠として利用量全権委員は、この条約に記名調印する。

隆煕4年8月22日内閣総理大臣李完用

明治43年8月22日痛感自作寺内正毅



한국황제폐하와일본국황제폐하는두나라사이의특별히친밀한관계를고려하여상호행복을증진시키며동양의평화를영구히확보하자고하며이목적을달성하고자하면한국을일본국에병합하는것이낫다는것을확신하고이에두나라사이에합병조약을체결하기로결정하였다.

이를위하여한국황제폐하는내각총리대신(內閣總理大臣) 이완용(李完用)을, 일본황제폐하는통감(統監)인자작(子爵) 사내정의(寺內正毅, 데라우치마사타케)를각각그전권위원(全權委員)으로임명하는동시에위의전권위원들이공동으로협의하여아래에적은모든조항들을협정하게한다.

한국황제폐하는한국전체에관한일체통치권을완전히또영구히일본황제폐하에게양여함.
일본국황제폐하는앞조항에기재된양여를수락하고, 완전히한국을일본제국에병합하는것을승락함.
일본국황제폐하는한국황제폐하, 태황제폐하, 황태자전하와그들의황후, 황비및후손들로하여금각기지위를응하여적당한존칭, 위신과명예를누리게하는동시에이것을유지하는데충분한세비를공급함을약속함.
일본국황제폐하는앞조항이외에한국황족및후손에대해상당한명예와대우를누리게하고, 또이를유지하기에필요한자금을공여함을약속함.
일본국황제폐하는공로가있는한국인으로서특별히표창하는것이적당하다고인정되는경우에대하여영예작위를주는동시에은금(恩金)을줌.
일본국정부는앞에기록된병합의결과로완전히한국의시정을위임하여해당지역에시행할법규를준수하는한국인의신체및재산에대하여전적인보호를제공하고또그복리의증진을도모함.
일본국정부는성의충실히새제도를존중하는한국인으로적당한자금이있는자를사정이허락하는범위에서한국에있는제국관리에등용함.
본조약은한국황제폐하와일본황제폐하의재가를받은것이므로공포일로부터이를시행함.

위증거로삼아양전권위원은본조약에기명조인함.

융희 4년 8월 22일내각총리대신이완용

메이지 43년 8월 22일통감자작데라우치마사타케


 ★漢字の廃止
 韓国が狂国に成って仕舞ったのには、原因が有る、反日の為に漢字をすたさった為で有る。ベトナムやタイ等の東南アジアの国々も昔は漢字を使っていた時代も有った。漢字は仏教や儒教と同じで中国伝来の筈、反日をしたい為に棄て去るは珍奇で有る。李氏朝鮮時代も両班階級は漢文を使用して居た。日本とは関係が無い筈。日韓併合時代に世宗大王が発案したハングル文字は両班や中人には不評で、奴婢や賤民や常人には普及し無かった。日韓併合時代に大日本帝国が小学校で教えた。今の日本人も小学校でRoumajiを学んだ。僅か七〇年前の新聞や広報や雑誌や書籍や書簡や史書がもう読め無い。漢字を棄て去った弊害が今頃出だした。日本も進駐軍のGHQの日本弱体化計画でEnglish英語の公用化やRoumaji表記を言い出した。命令に従って居たら、今頃韓国の様に狂国に成って仕舞って居た。反日をしたくて国滅ぼすで有る。ハングルでは同音異義語が多く元の漢字が判る人は判るがハングルで意味を覚えて居る人には理解しがたい。動物の脳は聴覚より視覚の方が広い、天敵を素早く見つけ、餌を探す為に必須な為で有る。幼児の漢字教育が知能を伸ばす報告も有る。表音文字と表意文字の混在で理解度が各段に上がった。されど、日本語を学ぶ外国人は反日をする韓国や中国が皮肉にも多い。ハングルも読むだけなら、小学校でRoumajiの様に教えれば多くの日本人も読める様には成るで有ろう。韓国は高麗連邦の民族統一を果たしても漢字の復活は望めない。何故なら憎っくき日本が未だに漢字を使って居る為で有る。漢字を復活させない限り、日本を追い越す事は出来ない。共進化と言う言葉が有る。植物が進化をすると動物も共に進化すると言うので有る。北朝鮮に連合国側が核廃絶を迫って居る。核廃絶を迫る米国は核保有国で有る。大陸間弾道ミサイルICBMも多数保有、負けじと発射実験も行った。太平洋上で水素爆弾の実験もし日本の漁船福竜丸の漁夫を被爆させた。焼夷弾でもに火恩全土を焦土に出来たのに、広島にウラン型原子爆弾を長崎にプルトニウム型原子爆弾を落とし、婦女子を含む民間人30万人を大虐殺した。極東国際軍事裁判で蛮行を隠す為に南京30万人大虐殺の嘘を吐いた。当時南京の人口は20万人で有った。大日本帝国軍が敗戦で撤収する時点では25万人で有った。5万人も増えて居た。30万柱の遺骨が見つから無い。南京と言っても柬埔寨の事では無い、首都北京の南の副都南京の事で有る。戦後多くの植民地が独立したが、大学を母国語でして居る国も少ない。母国語で表意文字で大学教育が出来る国も又少ない。カントの哲学を漢字で学べる幸運が有る。ハングル文字に漢字を混在させたら、カントの哲学の理解が


 倫理
カントは、倫理を研究しつつ、主観的な感情や状況に応じて「差がある」道徳ではなく、すべてが認めることができる「普遍的で客観的」な道徳を追求した。すべてが合理的であり、妥当であると考えている道徳を守ることが正しいと思っていたからである。これらの道徳を道徳法則と呼ぶ、カントは、人間は、自分の感情に沿って線を施すのは正しくないと見た。ここで、カントは、人間は、心の中で衝動と道徳が闘争と見た。つまり、善悪仕事をすることについて、人間の心の中で衝動と道徳心が闘争をし、道徳が勝てば良い行動をして衝動が勝てば、正しくないことをすることになる見た、といって道徳が衝動を取り除くしまってはならないとした。

カントは、行為の「結果」より行為の「同期」を大切に考えていた。彼はどのような結果を得るか、またはどのような目的を達成しようとする「手段としてのコマンド」ではなく、コマンドそのものが目的である「無条件命令」を道徳法則に提示した。すなわち時と場所に応じて変わる条件的ガオン(假言)コマンドではなく、どのような状況でも無条件従わなければ義務としてコマンドであるジョンオン(定言)コマンドを打ち出したものである。[18]

カントによると、誰もが任意の条件でも従うだけのジョンオンコマンドは、次の二つを挙げることができる。

まずコマンドは、「あなたの意志の準則(ギョクリュル)がいつも同時に普遍的立法の原理になるように行為せよ」である。[18]この言葉は、簡単に言うと、誰もがどのような行動をするときは、自分の考えているとき、他のすべての人がそのような行動をしても大丈夫だと思われる行動をしなければならないという意味である。

第二に、コマンドは、「あなた自身や他のすべての人の人格を常に同時に目的として扱うように行為せよ」である。[18]カントは、当時ヨーロッパで流行した自然的な人間観に反対した。人間が自然の法則に支配されると、本自然的な人間観を否定しつつ、彼はすべての人間の平等な尊厳を強調した。カントによると、人間には「道徳法則」があるということである。人間は絶対的な価値を持った人格として、他の目的のための手段ではなく、その「自体が目的」であり、それにふさわしい尊厳な扱いを受けなければならないとした。[18]



 윤리학
칸트는 윤리학을 연구하면서, 주관적인 감정이나 상황에 따라 ‘차이가 나는’ 도덕이 아니라 모두가 인정할 수 있는 ‘보편적이고 객관적’인 도덕을 추구하였다. 모두가 합리적이고 타당하다고 생각하는 도덕을 지키는 것이 옳다고 생각했기 때문이다. 이러한 도덕을 도덕법칙이라고 부르는데, 칸트는 인간은 자신의 감정에 따라 선을 베푸는 것은 옳지 않다고 보았다. 여기서 칸트는 인간은 마음 속에서 충동과 도덕이 투쟁한다고 보았다. 즉, 옳고 그른 일을 하는 것에 대해서 인간의 마음 속에서는 충동과 도덕심이 투쟁을 하며, 도덕이 이기면 선한 행동을 하고 충동이 이기면 그른 일을 하게 된다고 보았으며, 그렇다고 도덕이 충동을 없애 버려서는 안 된다고 하였다.

칸트는 행위의 ‘결과’보다는 행위의 ‘동기’를 중요하게 생각했다. 그는 어떤 결과를 얻거나 어떤 목적을 달성하려는 ‘수단으로서의 명령’이 아니라, 명령 그 자체가 목적인‘무조건적인 명령’을 도덕법칙으로 제시하였다. 다시 말하면 때와 장소에 따라 달라지는 조건적인 가언(假言) 명령이 아니라, 어떠한 상황에서라도 무조건 따라야만 하는 의무로서의 명령인 정언(定言) 명령을 내세운 것이다.[18]

칸트에 따르면, 누구나 어떤 조건에서든 따라야만 하는 정언 명령은 다음의 두 가지를 들 수 있다.

첫째 명령은, “네 의지의 준칙(격률)이 언제나 동시에 보편적 입법의 원리가 될 수 있도록 행위하라”이다.[18] 이 말은 쉽게 말해 누구든지 어떤 행동을 할 때는 스스로 생각할 때 다른 모든 사람이 그와 같은 행동을 해도 괜찮다고 생각되는 행동을 해야 한다는 뜻이다.

둘째 명령은, “너 자신과 다른 모든 사람의 인격을 언제나 동시에 목적으로 대우하도록 행위하라”이다.[18] 칸트는 당시 유럽에서 유행하던 자연론적인 인간관을 반대하였다. 인간이 자연 법칙의 지배를 받는다고 본 자연론적인 인간관을 부정하면서, 그는 모든 인간의 평등한 존엄성을 강조했다. 칸트에 따르면, 인간에게는 ‘도덕 법칙’이 있다는 것이다. 인간은 절대적인 가치를 지닌 인격체로서, 다른 목적을 위한 수단이 아니라, 그 ‘자체가 목적’이며 그에 합당한 존엄한 대우를 받아야 한다고 했다.[18]



 利他の精神の共生主義で共進化。