此れは旭日旗では無い
中国の反日ドラマには旭日旗は必須で有る。中国軍の蛮行をドラマには出来ない事情が有る。総てはダイオ日本帝国軍の軍国主義の帝国主義のせいにしたいので有る。南京大虐殺の嘘が罷り通る世界でも有る。南京の入城時の人口は20万人で有った。大日本帝国軍が敗戦で撤収した時の人口が25万人で有った。南京の方が安全と逃げ込んだ人が5万人も居た。30万柱の遺骨が見つからん無い。南京と言っても柬埔寨の事では無い、首都北京の南の副都南京の事で有る。米国のトルーマン大統領は日本人を東洋の黄色い猿と毛嫌い、絶滅を望んだ、焼夷弾でも日本全土を焦土にし、婦女子を含む民間人を抹殺出来たのに広島にウラン型原子爆弾を長崎にプルトニウム型原子爆弾を落として婦女子を含む30万人の民間人を抹殺した蛮行を隠す為に南京大虐殺の嘘を吐いた。韓国のソウルの郊外に독립문獨立門が未だに立って居る。フランスの巴里の凱旋門に模した門で有る。韓国人に聞くと皆が皆、日本からの独立と答える。されど、碑文には清国からの独立と書いて有る。
조선이 몇 해를 청나라의 속국으로 있다가 하나님 덕에 독립이 되어 조선 대군주 폐하께서 지금은 세계의 제일 높은 임금들과 동등이 되시고, 조선 인민이 세계에서 자유로운 백성이 되었으니, 이런 경사를 그저 보고 지내는 것이 도리가 아니요, 조선 독립된 것을 세계에 광고도 하며, 또 조선 후생들에게도 이때에 조선이 분명하게 독립된 것을 전하자는 표적이 있어야 할 터이요. 또 조선 인민이 양생을 하려면 맑은 공기를 마셔야 할 터이요, 경치 좋고 맑은 데서 운동도 하여야 할지라.
朝鮮が何年も清国の属国であったが、神様の恩恵で独立され、朝鮮大君主陛下が今は世界の首脳と同等な立場となり、朝鮮人民が世界にまたがる自由な人になったがゆえに、このようなめでたいことを無視するのは道理ではない。朝鮮が独立したことを世界に知らせ、また朝鮮の後生に、この時から朝鮮が永遠に独立したことを伝えるためにも表迹(表象)が必要であり、また朝鮮人民が養生するには新鮮な空気を吸い、景色が良く静かな場所で運動をすべきである。慕華館に新しく独立門を建て、その周辺を公園にして千秋万歳自主独立した公園であると伝える志である。
独立門の近くに、屈辱の歴史の영은문迎恩門の門柱が残って居る。대청황제공덕비大C皇帝功コ碑も屈辱の歴史が書かれて居る。
영은문(迎恩門)은 중국 명나라 사신을 맞이하는 모화관(慕華館) 앞에 세웠던 문이다. 한성부 서부 반송방(盤松坊) 모화현(慕華峴), 현재 지명으로 서울특별시 서대문구 현저동에 있었다. 조선 시대 내내 새 임금이 즉위하여 중국 사신이 조칙을 가지고 오면 임금이 친히 모화관까지 나오는 것이 상례였다.
1407년(태종 7년)에 고려 시대 때 개경의 사신 접견 장소였던 영빈관을 본따 서울 서대문 밖에 모화루(慕華樓)를 세웠다가 1430년(세종 12년)에 모화관으로 개칭, 그 앞에 홍살문을 세웠다.
1537년(중종 32년) 김안로(金安老) 등 3정승이 장계를 올려 모화관 남쪽의 홍살문을 개축하여 청기와를 입히고 영조문(迎詔門)이라는 액자를 걸었다.
1539년(중종 34년)에 명나라 사신 설정총(薛廷寵)이 "칙사가 올 때에는 조(詔)ㆍ칙(勅)과 상사(賞賜)를 가지고 오는데, 영조문이라 함은 마땅하지 않다"라며 영은문(迎恩門)이라 써서 걸도록 하여 이름이 바뀌었다.
1606년(선조 39년) 양차에 걸친 왜란으로 불탄 영은문을 재건한 뒤 명나라 사신 주지번(朱之蕃)이 와서 액자를 다시 써서 걸었는데, 해당 액자는 현재 국립중앙박물관에 있다.
1884년 갑오경장의 실패로 일본 세력과 개화파들이 일시적으로 물러나고, 개화파 김홍집 내각은 영은문을 청에 대한 사대굴욕외교의 상징으로 보아 1895년 2월에 철거하고 영은문 주초만 남겼다.
1896년 7월에 독립협회가 조직되었고, 서재필은 자주독립의 상징인 독립문을 영은문 자리에 세울 것을 발의하였으며, 독립문은 1896년 11월에 준공되어 1897년에 완공되었다.
영은문의 기둥을 세웠던 주춧돌은 사적 제33호로 지정되어 있다. 방형(方形)의 배흘림 장초석(長礎石)인데 4방의 모를 죽여 8각같이 보이고 위에는 가구구조(架構構造)를 고정시켰던 홈이 있다. 1979년에 도로공사로 인해 독립문과 함께 현재의 위치로 이설되었다.
1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。(中略)1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門[3]が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。
大清崇コ元年冬十有二月 ェ温仁聖皇帝 以壞和自我 始赫然怒 以武臨之 直擣而東 莫敢有抗者 時我寡君棲于南漢 凛凛若履春冰而待白日者
殆五旬 東南諸道兵 相継崩潰 西北帥逗撓峽内 不能進一歩 城中食且盡 當此之時 以大兵薄城 如霜風之卷秋蘀 爐火燎鴻毛 而皇帝以不殺爲武
惟布コ是先 乃降勅諭之曰 來 朕全爾 否 屠之 有若英馬諸大將 承皇命相屬於道 於是 我寡君集文部諸臣謂曰 予托和好于大邦 十年于茲矣 由予惛惑 自速天討 萬姓魚肉 罪在予一人 皇帝猶不忍屠戮之 諭之如此 予曷敢不欽承 以上全我宗社 下保我生靈乎 大臣協贊之 遂從數十騎 詣軍前請罪 皇帝乃優之以禮 拊之以恩 一見而推心腹 錫賚之恩 遍及從臣 禮罷 即還我寡君于都城 立召兵之南下者 振旅而西 撫民勸農 遠近之雉鳥散者 咸復厥居 詎非大幸歟 小邦之獲罪上国久矣 己未之役 都元帥姜弘立 助兵明朝 兵敗被擒 太祖武皇帝 只留弘立等數人 餘悉放回 恩莫大焉 而小邦迷不知悟 丁卯歳 今皇帝命將東征 本国君臣 避入海島 遣使請成 皇帝允之 視爲兄弟国 疆土復完 弘立亦還矣 自茲以往 禮遇不替 冠盖交跡 不幸浮議扇動 搆成亂梯 小邦申飭邊臣 言渉不遜 而其文爲使臣所得 皇帝猶ェ貸之 不即加兵 乃先降明旨 諭以師期丁寧反覆 不翅若提耳面命 而終未免焉 則小邦君臣之罪 益無所逃矣 皇帝既以大兵圍南漢 而又命偏師 先陷江都 宮嬪王子曁卿士家小 倶被俘獲 皇帝戒諸將 不得擾害 令從官及内侍看護 既而 大霈恩典 小邦君臣及其被獲眷屬 復歸於舊 霜雪變爲陽春 枯旱轉爲時雨 區宇既亡而復存 宗社已絶而還續 環東十數千里 咸囿於生成之澤 此實古昔簡策所稀覯也 於戯盛哉 漢水上流三田渡之南 即皇帝駐蹕之所也 壇塲在焉 我寡君爰命水部 就壇所搦ァ高大之 又伐石以碑之 垂諸永久 以彰夫皇帝之功之コ 直與造化而同流也 豈特我小邦 世世而永ョ 抑亦大朝之仁聲武誼無遠不服者 未始不基于茲也 顧搴天地之大 畫日月之明 不足以彷彿其萬一 謹載其大略 銘曰
朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
清国からの逃亡者を隠してはいけない。
日本とは旧来通り、貿易を行うこと。
清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品(20余種の物品とは具体的には、清国に朝鮮人美女、牛、馬、豚など各々3000などの物品のこと)を毎年上納すること。(出典:朝鮮王朝実録 仁祖録 仁祖十四年一月二十八日)