リベルターリアス/自由への道

 リベルターリアス/自由への道、原題がLibertariasiで、監督はヴィセンテ・アランダ 主演アナ・ベレン/ヴィクトリア・アブリル/アリアドナ・ヒル、スペイン語、1995年制作。125分、スペイン、イタリア、ベルギー合作         

 アン・ベレン(ピラール 女性兵士)
 ビクトリア・アブリル(フローレン 元本屋の女性兵士)
 アリアドナ・ヒル(元尼僧 ピラールに救われる)
 オレス・レオン(チャロ 元娼婦の女性兵士)
 ホセ・サンチョス(元工員の兵士)



           あらすじ

 *ケン・ローチ監督の「大地と自由」が、お向かいのイギリスから見た、憧憬に満ちた思い入れ過多なスペイン市民戦争なのに対し、こちらは真只中、フランコ大好き派も抱えた現在の新生スペインで作るスペイン市民戦争もの。それだけに、アナーキストの女達が主人公とは言え、様々な配慮の効いた現代の映画です。
 殺された司祭を見て「なぜ殺すの?」という問いに、「誰かが償いをするの」と答えるピラール。そのことについてはあまり考えないんだという「兵士」としての彼女は、やがて惨たらしく死を迎えることになります。前半のコミカルな展開と後半の息苦しい場面の対比が、あまりにも鮮やかで、思い出として他者が語るセンチメンタルな市民戦争と、それを生き抜いて現在も抱えているスペインのおじいちゃん、おばあちゃんの思いの落差に、想い到るわけです。実際、フランコ側に立った人たちの方が圧倒的に多く存命しているのでしょうから、終わりの方の場面でフランコと思われる優しげな将軍がマリを救う場面があっても失笑などしてはいけない、当然な配慮なのです。残酷なのはモロッコの傭兵たち自身で将軍には罪はない、、で、右側も左側も両方に配慮しながら、ではその主幹はと言うと。

 一つは戦争という惨い現実、もう一つは自由を求めて生きた無名の人々の記憶、特にフェミニズムから見た市民戦争です。この視点があるから、この映画は単に歴史再現ドラマではなく、90年代の映画として秀逸だと思うのです。 

 女性は武器を置いて女性らしく革命を支えようという論者に対して、ピラールが噛みつくシーン、武器を取ったから男と同じ権利が手に入ったんだ、私は今嬉しくてしかたがない、もう、以前の「家庭にいる女」には戻らない、という叫びに今のスペイン女性が共感を持つのは当然です。(まあ、でも、そのままいけば、男も女も深夜勤務の企業戦士になっちゃうわけで、シエスタのあるスペインこそ、残しておいてほしいな、、とか、、)

 自由を謳歌する「ふしだら」といわれた女性兵士たちは、組織的軍隊に組み込まれるのを拒否した兵士達といっしょに捨てられて、滅びていきます。最後まで生き延びるマリは、、修道院で育ち、誰かにすがって命令に従順に生きてきた彼女は、聖書をバクーニンに持ち替えても、その生きる姿勢を変えることができませんでした。 「教会」「アナーキスト」「フランコ将軍」と目まぐるしく変わる時勢を、流されるままに見つめてきた彼女の視線は、私達「ふつうの市民」のものです。彼女の姿はちょうど映画「禁じられた遊び」の少女のように、その最終場面のように、後ろを向いて痛々しく、うろたえた迷子の姿をしています。