東京電力原子力発電所の紹介



 核燃料技術[編集]
福島第一原子力発電所1号機の運転開始当初、使用された燃料はGE社ウィルミントン工場で製造されたものだったが、100%出力となってから数ヵ月で復水器の抽気ガス(オフガス)が発生してきた。これは、燃料棒内の水分が放射線分解して水素を発生し、被覆管のジルコニウムと結合して脆化することが原因であり、国産燃料を製造に当たったJNF社製の燃料が導入された際には製造時に湿分管理を行って対策とし、このような事象は激減した[7]。
JNF社製の燃料が当初から装荷されるようになったのは2号機からである。JNF社は久里浜に工場を稼働させていたが、当初は成型加工組立だけを実施していた。1973年からはイエローケーキと呼ばれるU3O8から六ふっ化ウランUF6への転換工程も実施した[8]。
1号機が最初の定期検査に入った際には破損燃料をいかに減らすかが課題となった。破損燃料が減少すれば炉内への放射能濃度も下げることが出来、検査時間の短縮にも繋がるからである。この時に対策したのは燃料ペレットとジルコニウム製被覆管で発生する相互作用(PCI)である。ペレットが核分裂により加熱されるとペレット中心部の温度がペレット外周部分より高温となるため、鼓型に膨らみ、それが被覆管に接触すると応力をかけ、環境中にヨウ素などが存在している場合は応力腐食割れに至る。この対策として(1)材料、(2)環境、(3)応力の3条件から応力腐食割れが発生することから、3点を改善する対策が取られた。(2)については被覆管の内側にジルコニウムを内張りしたジルコニウムライナー燃料が開発された。(3)については設計時にはPCIOMRと呼ばれる出力制御法を考えていたが、実際には操作過程が複雑となり利用率が低下する問題があった。そのため、燃料棒の方を改善することで対応することとし、GEの設計を修正、工程上1,2,3,5号機では間に合わなかったため4号機より適応し、1980年12月の第2回燃料取替え時に140本装荷した。具体的には泡が多く中性子減速が弱くなる炉心上部の燃料は濃縮度を高くした。これにより操作法をある程度単純化することが出来、燃焼サイクルを重ねるごとに利用率も向上し、第4サイクル時には当初より5.7%の向上をみた[7]。
なお、2号機の初装荷燃料ではガドリニア(Gd2O3)と呼ばれる燃焼初期の反応度を抑制する物質を多く入れすぎたため、起動試験時には制御棒をすべて抜いても定格出力に到達しないという問題が東電に訪れたGEの炉心設計の責任者より報告された。このため、PCI対策の際にはガドリニアの濃度にも注意が払われ、ウランが燃焼して反応度が落ちる分だけガドリニアの吸収度も落ちていくような設計とする必要があった。燃焼が進むと炉心上部には泡の影響でプルトニウムが蓄積することが知られていたため、GEの設計を改めた際にはガドリニアも燃料棒の炉心上下方向の位置で濃度差を設けている[7]。
その後も燃料の改良は続けられ、それまでの燃料棒を7×7に配列したタイプから1977年には日立製作所が8×8型を開発、順次取り換えられていった。その後8×8型は1983年に新8×8型、1988年より8×8型の配置のステップI燃料の納入を開始した。1992年には8×8型のステップII燃料を納入開始し、福島第一原子力発電所4号機を例にとると、1994年末の定期検査時にステップI型から交換されている。このように順次燃料を新型に更新していくことで取替燃料体数の削減が図られ、1990年代に開発を開始したステップIII燃料では取り出し燃焼度を向上し、燃料サイクル費の削減が図られている[9]。
一方、MOX燃料を使用したプルサーマルについても開発が進められ、2002年10月の3号機定期検査終了時に装荷するかどうかなどがすでに政治日程としての意味合いも含めて議論されていた。しかし、当時の県知事佐藤英佐久が東京電力原発トラブル隠し事件などを通じて原子力行政に不信感を抱いていたこと、税収の落ち込みを埋め合わせるため核燃料税の税率引き上げを実施したことなどから県と東電、国との関係が冷却化した[10]。実際の装荷は2010年まで遅れることとなった。
運転技術[編集]
負荷追従運転[編集]
東京電力においても負荷追従運転の考え方自体は1972年当時には将来的には実施可能であるべき目標として提示されていたが、当時は系統容量に占める原子力発電の割合が低位であり、(第一次オイルショック前でもあって)原油価格も極めて安価であった。そのため同時期に建設されつつあった大容量揚水発電所との組み合わせでベースロードとして使用するのが最も効率的とされていた[11]。実際、1972年8月22日に開催された労使間の経営協議会にて経営側は「環境・資源問題に対処する電力資源活用の推進」とする総合的な施策を提案し、組合もこれを了承しているが、そこでは需給運用対策と原子力電源の運用について次のようなロジックが語られている。つまり、火力発電は大気汚染源であるので汚染物質の含有量が少ない「貴重な良質燃料の有効活用」がその軽減には必要であるがそういった良質燃料は高価で生産量が少ないことが難点であった。そのため「原子力についても高利用率運転を行ない、これにより火力特に湾内火力の発電量を軽減し、公害防除と良質燃料の有効活用をはかる」とされた[12]。

それでも1971年3月の福島第一原子力発電所1号機運転開始の際の組織改正にて、現場のバックアップを目的に設けられた原子力部原子力発電課は、負荷追従に際して関係する下記の3装置

AFC(自動周波数調整)
DPI(運転規準出力指令表示装置)
DPC(運転規準出力指令制御装置)
について、当時の火力発電所に倣って当面考慮するべき給電指令上の技術目標として提示している[13]。

福島第一原子力発電所の6機のプラントが完成し、東京電力の系統容量に占める原子力発電の割合(同社に売電していた日本原子力発電の設備を含む)が増加した1979年になると、当時の東京電力原子力開発本部長、豊田正敏は夜間や休日に出力を下げる形で負荷追従運転、AFC(自動周波数制御)運転について「昭和60年代前半」(1980年代後半)には必要でとなってくる旨を述べており、当面は福島第一原子力発電所1、3号機を対象に実証試験を実施する計画を立てていた[14]。

BWRの負荷追従は制御棒調整を用いず再循環流量制御のみを実施した場合でも100〜65%程度までの出力調整が可能である。そして出力調整の操作はタービン制御装置の負荷設定器か再循環流量制御器の設定を変更することで実施されるが、1970年代の日本では運転員が手動で変更する以外の選択肢が無かった。運転員の負荷を軽減するため、福島第一原子力発電所の3、5号機に出力調整装置が設置され、計算機シミュレーションで解析を行いつつ、実証実験は段階的な実施となった[注 2]。負荷追従運転は系統の電力需要に応じ幾つかに分類できるが、同発電所で実験されたのは「日負荷追従運転」である。実績としては5号機の場合、95⇔75%出力、14-1-8-1hパターン運転[注 3]を実施し、負荷追従を考慮した改良燃料を使用しない条件での実験であったが、簡便で迅速、安定な制御を確認した[15]。

1985年には負荷追従運転の実施時期について言及し、新型燃料の実証試験を睨みながら、電源設備に占める原子力比率が27%に高まる1994年頃からは必要になるとしていた[16]。なお、1980年代中盤は冬期の電力需要に占める原子力負荷の割合が漸増しており、1986年1月2日の例では全国平均で65.5%のところ、東京電力では88%となっていた。こうした「原主火従」の到来を背景に、東京電力は需要の低下する夜間などに負荷追従を企図し、ジルコニウムライナーを採用した新燃料を重電各社と開発、試験を1986年度後半から福島第一原子力発電所4号機、福島第二原子力発電所1号機で実施する構えだった[17]。

しかし、その後、東京電力の原子力発電所において試験目的以外での負荷追従運転が実施されたことは無い。

定格熱出力一定運転[編集]
『とうでん』2002年7月号によると、経済産業省は2001年12月、「定格熱出力一定運転[注 4]を実施する原子力発電設備に関する保安上の取扱いについて」という通達を出し、東京電力は同通達に基づいて2002年より各原子力発電所への導入を開始した。福島第二、柏崎刈羽については2002年5月より定格熱出力一定運転が一部の原子炉で開始された。福島第一原子力発電所については2003年以降、順次導入が進められた。1号機を除く各号機はそれまでの電気出力一定運転から順次切替されていった。

切替に当たっては、原子力安全・保安院に対して定格熱出力一定運転を実施した場合の健全性評価が提出され、過去の類似設備での実績を元に、下記について評価した[19]。

設備上の最大出力を発生させる運転状態:蒸気加減弁が全開した状態(定格蒸気流量の105%相当)
タービンミサイル[注 5]評価及び蒸気タービン設備:設計最大出力状態において非常調速装置が作動した時のタービン回転速度(定格回転速度の119.6%に余裕を持たせて設定し120%)
情報技術[編集]
1980年代(原子力管理業務総合機械化計画)[編集]
東京電力は低成長時代への対応策として1980年6月に「80年代経営の基本路線」を定め、具体的な構想として「第3次業務機械化」を推進した[20]。

1983-1984年:各事業所にPC、ワープロを試行導入
1985-1988年:LANによるOA機器の統合利用、文書、図面、画像等非数値情報の処理を前提とするシステムの導入
1989年以降:システムの全社的統合、社外との連携
また、機器導入に際して次の原則を設定している[21]。

早期陳腐化に対応し投資回収期間を2年に目標設定(実際は1年で回収)
機種は部門毎に統一
このように、管理業務の効率化は1980年代に入って経営方針にも如実に示され原子力部門もその例外ではなくなっていたが、一方で計算機技術の進歩は目覚ましく、日常の事務管理にも徐々に情報機器の導入が本格化し、プロセス計算機も1980年代のプラントでは入力点数で約5倍、主記憶装置容量で約70〜80倍の増大が見られた。こうした状況の中、東京電力は原子力部門にて、3段階のフェーズに区切って20のサブシステムから成る原子力発電業務の総合電算化の計画(「原子力管理業務総合機械化計画」)を構想し、1985年度から3ヶ年をかけて開発を進めることとした。当然、各原子力発電所にもホスト用の計算機、端末が社内LANと共に導入され本店の大型ホストコンピュータと接続された。各フェーズの概要は下記となる[22]。

フェーズI:1985年度を目標とし同年度に運用を開始した5つのサブシステムを指す。これらは既に本店で一部システム化がなされているが、総合機械化共通事項や全体システムの詳細設計を進め、発電所に移行してデータを一元管理し、既設システムもサブシステムとして位置づけして運用する。
フェーズII:1986年度目標、同年に運用開始した3システムの他、個人線量管理等幾つかのサブシステムを包含する。プロセス計算機や各種ミニ計算機との連携を前提として開発。
フェーズIII:1987年度を目標とし、新規に開発する設備機器管理、作業管理等のサブシステムから成る。


http://www.tepco.co.jp/index-j.html


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB















































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