なすびとトマト

 なすびとトマトが親戚だ何て信じられません。トマトの実の青い内は確かになすびに似てなくもないがトマトの別名を赤なすと言うぐらいだから、全くの別物で無い事は理解出来ますが、色付きと言い、味と言い、食べた食感と言い、全くの別の物の様にも思えます。子供の頃、畑で葉っぱの陰に隠れて居た、赤く色付いた超特大級のトマトを収穫した時の感動は未だに忘れられません。トマトは野菜なのに、果物の安価な代用品にも成り、おやつの代用品にも成り、重宝の限りで有る。未だ青くて固い時には、米櫃の中に入れて置いた経験も有ります。
 牡丹餅と御萩も季節によって呼名が変わるのが不思議で有る。日本語の優雅を感じますが、季節感の無くなりつつ在る現代においては、考えさせられる言葉で在る。寧ろ濾し餡を牡丹餅、潰餡を御萩と呼んだほうが良さそうにも思えますが、私の思いが通じますかどうか。
 言葉は地域によって全く違う呼名が付いて居たりして、不可思議の限りで有る。方言で話されると外国語の様に、全く理解出来ない場合も有ります。標準語の威力は偉大です。
 最近ズボンの事をパンツと言う若い女性が増えてきました。業界用語のせいか。確かに子供の半ズボンをパンツと言って居たので、間違いでは無いんでしょうが。下着のイメージの強い言葉を、誤解する人も居るだろう事を知って居ながら、平然と使って憚ら無いのは英語の影響か。
 旧約聖書創世記第十一章によれば、世界の言語がひとつであった昔、人々は集まって天まで届く塔を造り始めた。神はこれを見て、人間の尊大をこらしめるため、言葉を乱して、お互いに意志が通じ合わないようにした。そのため、塔の建設は中止され、人間は以後各地に分散し、それぞれの地方の言葉を話すようになった・・・。バベルの塔の物語で有る。モデルと成った塔は実際に在ったそうです。
 人間を人間足らしめると迄言われて居る、言葉の重要性は分かって居ても、外国語と成ると急に事情が違って来ます。日本人の多くが六年間も英語を勉強し乍、幼児番組すら良く分ら無い人も居ます。最高学府を修めた人でも、字幕の無い洋画が分る様に成るとは限ら無い。歳いってから外国語に再挑戦しょうと思う人も居るが、学習効果の程は疑問で有る。パソコンや料理は一寸勉強すれば趣味程度なら結構楽しめるのに。何年勉強すれば映画を楽しめる様に成るのであろうか。
 外国語が少し分る様に成ると、不思議な親近感が芽生えて来ます。意外な外国の文化が見えて来ます。人生を二度楽しむ様な不思議な感覚に襲われます。外国を理解する事は、世界から戦争を無くし、世界平和への道です。歳いってからでも、大いに再挑戦して見ましょう。知識の世界が広がります。
 インターネット等の発達で、英語は世界標準語の様相を呈して居るが、日本人には英語の発音は難しく聞き取り難い。日本からは地の果てとも思える地にも、偶然の一致か、日本語の発音に似た外国語も在るスペイン語も其の一つ有る。スペイン語は母音の数が5つで日本語と同じで在る、子音が矢鱈多い英語と違って可也少ない、又一つの文字は一つの発音しか無く、殆どがローマ字読みで通じる。
 今の日本の高校生に実力をもってすれば三年間で可也の学習効果が期待出来ると想像出来ますが、現実はそうは成って居無い。高校でも外国語を選択出来る様にすべきであろう。第一外国語の英語に絶望した学生が第二外国語のスペイン語を習得出来るとは思え無い、私は片言のスペイン語丈で無謀にもスペインへ旅行した事が有りますが。意味さえ分れば、日本語と余変わら無いと言う印象を得ました。
 CS放送等の外国語放送を見て居ると外国の思わぬ文化、歴史、習慣に触れると感慨もひとしおです。 実際に外国へ言ってみて、痛感する事話は、もっと外国語を勉強して置けば良かったと思う後悔丈です言葉が分らなければ何も出来無いので有る。駅や公園、美術館や博物館、街や店をブラブラと観て廻っても余に能が無い。言葉の壁は余に厚い。街をぶらついて居るとムカットする事に出会う事も有るので有る日本程治安の良い国は他に無いので有る。日常生活すら儘なら無い。命すら守れ無い恐怖が潜んで居る。外国へ行って恐い目に合って、鬼に成らないと中々外国語の勉強も余進ま無い。通勤電車の中で辞書を開くのを恥ずかしがって居ては、外国語の勉強等儘成ら無い。
 外国で語学力を生かして支援活動に奉職して居た或る娘様が、凶悪なテロリストに拉致されてしまい、イラクからの自衛隊の撤退を日本政府に要求されてしまい、あわや殺されそうに成って、日本中が大騒ぎに成った事件が有りました。幸い大事に至ら無かったが、それでも活動を続けたいとついうっかりと言ってしまい。「あんなに皆に迷惑をかけておきながら、如何して其の様な事を言うのかね・・・」とひんしょくをかったが。外国語を話せない凡人には理解出来無い、其う言わしめる魅力が外国語には在ったんでしょう。人は様々で在る、人の心も又様々で在る。自分の心の物差しで、人の心を推し量ては成ら無い。 なすびの心をトマトは知らず、トマトはなすびの心を知ら無い、言葉の壁は余に厚く、かくて争い事は世界に尽きる事が無い。
 天国と地獄も古今東西多くの芸術家や文学者が描き尽くそうと挑戦して来ました。地獄のイメージは現世にも余に似た世界が数多く存在するのか。其の怪奇迫っる世界の描写の凄さには圧倒させられる物が有るが、一方の、天国のイメージの貧弱さには唖然とさせられます。其れ程天国のイメージは多くの芸術家を悩まし続けたテーマは無い。へいへい凡々たる日常生活も病気に成って初めて、其れが天国で在ったのだと感じるので有る。天国には誰も行った事が無いのに、芳しい花の匂を嗅ぐと天国を実感するのは、不可思議の限りで有る。人間の感覚も虫と違ってる筈も無く。人間が描き倦ねる崇高な理想の世界の天国のイメージと虫が感じて居る本能の世界が似て居ると言うのも不思議な事では有る。依って花に対する人の思いは特に強く、天国のイメージに花を代用する人も多い。花に包まれて死にたいと願うのは、人類共通の本能的な物が潜んで居るのだろうか。幸福の鳥を求めて世界中を探しも見つからず、結局自分の家に居たと言う物語も有る。全て心の持ち方で有る。      2005−04−17−22−OSAKA



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