黒い雄牛(こって牛)

 村人の誰もが羨む見目麗しき田中家の雪の様に白い肌の御内儀の雪江は一つ丈悪癖が、自分の家の田圃に来ると矢鱈小用を足したく成る癖が有ったので有る。或る日も何時もの様に天神宮に御参りの帰り道に自分の田圃に来て、畦道で着物の裾を捲くり気持ち良さそうに小用を足して居ると。山の様にい大きい黒い雄牛の背に胡坐を掻いて載り笛を吹いて居った隣村の変な童に出会ってしもうた。
「お地蔵さまの側でしし等放いて罰が当るで」「 そなたは、元気なおのこじゃのう」
「うちがおのこに見えるか」「おなごや」
「なあ、此の牛かえへんか」「そんな、役立たずのこって牛等、要らぬ、誰が世話をするのじゃ」
「うちが世話してあげる」
「悪い噂が隣村まで聞こえて居るが、あれは本当か」「何と」
「大事な一人息子が十にも成って寝小便を垂れして居ると言う恥ずかしい噂やがな」
「遺尿症等其の内治る」「悪い噂が流れてしまっては縁談にも差し支えるわな、うちが序でに嫁に成ったろか」
「呆れた娘じゃ、好きな様にせ」牛を飼う事にしたら、娘が本当に世話しに着いて来てしもうた。

「ほう、風呂に入ったら可愛い顔して居るのう、口さえきかねばおなごに見える」夫の吉造は珍しく嫌味を言うた。
「ええ、うちが小母ちゃんと一つ蒲団で一緒に寝るのんか」
「贅沢言うで無い、猫を見習い、嫌がりもせずに人と一緒に寝て居るえ」
「猫と一緒にせんといて」「ええか、寝小便垂れしたら、実家へ帰すよってな、ししは済ませたか」
「小母ちゃんのお乳大きいな」「これ、他人のお乳を触るで無い」
「死んだ、お母ちゃんと同じ匂いがする」
「神様も酷いな、やや子の欲しい女には出来ず、出来ては困る売女には出来る」
「これ、其んなはしたない言葉を使うで無い」
「うちを娘と思うて気張る事や、うちなら四人はややを産める」娘は犬の字に成って寝、鼾を搔いた。
「まあ、まあ、何と寝相の悪い娘じゃ事」呆れ返る雪江。

 娘が世話をすると言うので御内儀は牛を買って、飼う事にしたが。病弱で気鬱な一人息子の遊び相手にと思ったので有るが、雄牛は雌牛と盛りたがり、暴れ廻ったので有る。古い五寸柱の橋を渡ったと言う実話も有る。父が雌牛を借りて連れて来てヤット落ち着いた。田圃を荒らし、鶏小屋を壊し、案山子を襲うし、御内儀は謝りに廻る事とあい成った。役立たずの雄牛で有った。

「又、寝小便垂れしてしもうたんか」と母者の様に太郎の御尻を叩き、嫌がる太郎を無理矢理野に連れ出し、牛の背に載せ、笛を吹き、木に登り、雑魚獲りをし、雲雀の巣を探し、凧を揚げ、和蘭蓮華を編んだり、蓮華草の草の絨毯の上を転がり廻る毎日で有った。太郎は病弱で気鬱で内弁慶で有った。

「又、泥だらけに成って帰って来て」呆れ返る雪江。
「早苗、雄牛の世話は遣って居るのか」「太郎ちゃんの世話で手が廻らへん、適当に遣っといて」
 太郎を出汁に遊び呆ける娘。
「太郎ちゃん、一緒にお風呂に入いろ、背中を流してあげる」御乳も膨らまぬ童女が夫婦ごっこを楽しんで居ったので有る。
「あんた、寝る前にしっこしたか」もう女房気分で三つも年上の太郎も子供扱いで有った。
 太郎の気鬱も次第に治り、元気に成り、明るく成り、遺尿症も治った。学校の成績も上がった。微分方程式も解ける様に成った。宇宙論も論じられる様にも成った。電子計算機のプログラムも組める様にも成った。

 或る日、太郎が前栽で小便をして居るとこ、早苗に見付かってしもうた。
「あんた、こんな処でしっこなんかして、何考えて居るの」「此の家には魔性が巣食って居る、鼠の頭と尻尾が座敷に有る」「そんな、阿呆な、裏の泥棒猫の仕業に決まって居るやろ」早苗は嫌がりもせぶ、猫の食べ残しを始末し、雑巾で畳みの血糊を拭いた。

 或る日、早苗が野良仕事から帰って来たら、裏の憎っくき犬めが座敷に上がり込んで、錦の襖の見事な山水画に加筆して居った。
「こら、何をし居るか」
 小さい南京を投げたら犬の急所に当たり、キャーンと啼いて倒れてしまた。犬を殺してしまったと思った早苗はショックの余り尿失禁してしまった。足元に大きな水溜りが、其れを見た太郎は放心状態で抵抗出来無い早苗を座敷の座布団の上に押し倒して早苗に接吻してしまった。早苗の下穿きを脱がせようとして居ると、運悪く雪江が買い物から帰って来て二人を見てしまった。雪江は太郎の頬を手形が付く程に思いっ切り叩いた。
「兄妹で盛る心算か」「もう兄妹じゃ無か、夫婦じゃ」「何やて」
「ええか、今度悪さをしよったら、勘当やで」
「殺されてもかまへん、早苗は何処へも行かさん」「此の阿呆垂れ」
 太郎は早苗に初恋心を抱いてしまって居ったので有る。
「犬を殺してしもうた、石子詰の刑に処せられるのんやろか」「御粗相してしもうたんか」
「犬を殺してしもうた事、お父ちゃんに丈は言わんと居てな、内緒やで」
「安心せ、未だ死んでは居らぬわ、気を失って居る丈じゃ、早よう着替えてき」暫くして、犬は起き上がりよろけ乍尻尾を丸めて逃げ帰った。

 或る日、早苗は道端に捨てられて居った、猫は拾って来た。
「猫の子を拾って来たのか、此の前、犬で往生放いたのでは無かったのか」
「台湾泥鰌は捕まえて来るし、鯰は捕まえて来るし、鼈は捕まえて来るし、只の雄の雛は貰って来るし難儀な娘じゃ」


 季節が廻り、何年か経って、雄牛も年老いて何故か元気が無い。
 或る日、蜂に刺されても泣か無んだ早苗が珍しく泣いて居った。
「あら、珍しや、太郎と喧嘩でもしやったか」「違うの、親戚に不幸でも有ったのか」
「牛が元気が無いねん、死ぬかもしれへん」「其れわ困ったのう、もうええ歳じゃろがな」
 牛が死んだら、早苗の仕事も無く成るので有る、此処に居てる意味が無く成るので有った。

 早苗は天神宮に行き、跣に成って御百度を踏んで居った。太郎はそんな健気な早苗を見て女を感じてしまった、牛小屋で老衰気味の雄牛を嘆く早苗の膝の上に猫は厚かましく載り、気持ち良さそうに、咽喉をゴロゴロ鳴らしてまどろんだ。其れを見て居た太郎は行き成り早苗を藁の上に押し倒し、雄牛や猫の見て居る前で犯してしまたたから大変な事に。
「早苗、御前が好きで好きで堪らん」
「今、何をしよったんじゃ、うちら夫婦に成ってしもうたんか」
「やや子が出来るのか」「痛いかったんか」
「うちが、若奥さんに成るのか」「もう泣くな、もう何処へも帰さん」
「わてが、お母ちゃんか」「どないしょう、学校退学させたれて、勘当されてしまう」

 雄牛は死に、早苗は初潮の迎える前にやや子を身篭ってしもうた。

 父の吉造は村人の辛抱も厚く、前から要請の有った。川の樋を私財を擲って造った、樋で水路の水量が調節出来る。しかし其れが当局の反感を買い。警察に捕まってしもうた。穏やかに流れる川も、水利権を巡って泥水の逆巻く様相を陰でして居るので有った。江戸時代には一家全員が処刑された悲しい実話も此の大阪の北河内には有る。
 厨房で早苗が夕食の用意をて手伝って居るのやら、邪魔をして居るのやら。
「何思い出し笑してんねんや、お父はんが警察に捕まったと言うのに、不謹慎な」
「うちに迄、咎が及んで処刑されてしまうねんやろか」「そんな阿呆な事」
「早苗ちゃん、最近太ってきたんと違うか、豚に成ったらお嫁の貰い手が無く成るえ」
「太郎ちゃんのお母はん、喜んで、うちにやや子が出来た見たいやねん、もう既に太郎ちゃんと夫婦に成ってしまって居るねん」
「ええ、何やて、如何しよう、豪いこっちゃ、学校の先生に何て言い訳しょう」
「メンスは未だの筈やろ」初潮を迎える前に身ごもってしまったので有る。

 雪江は何を勘違いしたか、赤飯を炊いて祝って早苗の父を呼んだ。
「ほう、珍しい赤飯か、早苗も到頭おんなに成ったのか」と親戚でも無いのに厚かましく度々遣って来る、相変わらず暢気な早苗の父が言うた。
「やや子が出来てんて」「ええ」吃驚仰天の父。

 雪江が座敷で新聞を大きく広げて読んで居ると、猫が遣って来て背中に載った。
「これ、猫が人の背中に載るもので無か、真面目に鼠を捕って居るのか、只飯を喰らって居るのか」
 雪江は猫に嫌味を言うた。

 早苗の御腹が大きく成る前に、身内丈で祝言を挙げた。童女の様な花嫁で有った。

「早苗、最近は笛はもう吹かんのか、もう一度聞かして呉えぬかのう」矢鱈笛を聴きたがる早苗の父。

 早苗は女の子を産み落とした。春子と名付けた。
 早苗は太郎と野良仕事に出ると吾が子の事等ほったらかしで有った。
「あんたのお母ちゃんは何時成たら帰って来るねんやろな、お腹か空いたやろな、困ったな」
 困りはて出無い筈の御乳を吸わせて居ったので有る。其の内奇跡が起きてしまったので有る。春子は婆さまの御乳も内緒で吸って居ったので有る。

 母親に似ず天女の様な淑やかな娘に育った。早苗は次々に冬子、秋子、夏子を産み落とした。

「早苗、いったい、何人やや子を産んだら気が済むのじゃ」「おのこが欲しいねん」

 善人の父は御人好しで、私財を投じて村人の便利を思ってした事で捕まってしまい、不本意な年月を送って居った。父の長い裁判が終わりヤット無罪放免に成って気を良くしたのか、いい歳放いて雪江にやや子が出来てしもうた。

「ええ、お母はんにやや子が出来たん」半ば呆れ顔の早苗

 雪江が男の子を産み落とし、次郎と名付けた。だが如何言う訳かもう歳か、今度は御乳が出無かった。

「困ったな、あんたのお母ちゃんのお乳が出無くて困ったな、何とかしてわてのお乳が出無いやろか」
 早苗は次郎に御乳を吸わせて居ったら、其の内に御乳が出るように成った、又奇跡が起きたので有る。雪江に内緒に次郎に御乳を飲まして居ったので有る。

 其の内、早苗の笛が有名に成り、放送局がテレビジョンの撮影に遣って来た。笛を吹いて居る処を撮影したいと言うので有る。
「お通さんの様に巧く吹けません」腹を空かし憤る次郎を見かねて。
「次郎ちゃんお腹が空いたんか」「わてのお乳で我慢しとくか」
 母者の子、太郎の弟の次郎に御乳を飲まして居る処を、撮影され全国放送されてしまったから大変な事に、卑猥、猥褻、下品、淫らだと言い出す人まで出て来る始末で有った。たかが授乳をで有る。

 更に季節が廻り、何年か経って。春子も善き夫に出会い、子供に恵まれた。

 最近の女子は女性専用車両の中でしか、赤子に御乳もよう飲ませられ無いのか、恥晒しもよいとこじゃと嘆き乍、雪江は八十二歳で此の世を他界した。死ぬ迄早苗は良く母の面倒を見た。黒い雄牛は役立たずで有ったが早苗は役に立ったので有る。





          2007−06−25−239−03−01−OSAKA



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