由里殿の誓約書

 むかし、むかし、あるところに、たちいばりをするような娘を嫁にするのは嫌じゃ嫌じゃと駄々を捏ねた、阿呆な男が居ったそうな。其の男、仁吉は其れ丈が我慢出来無かったので有る。
「私は、父上の事を長年尊敬して参りました、父上の申される事は全て正しいと信じきって居りましたが此の度の縁談では、失望致しました、父上は私に恨みでも在るのでしょうか」
「何と、由里殿は此の辺では珍しい、美形成るぞ、不服を申せば罰が当たるぞ。女子伊達らに馬に乗ったり、樹に登ったり、逆立ちするような女子等一杯居るぞ」「其の様な事は我慢出来ます、私の我慢出来ないのは、彼の様に可愛い顔をして居て、平然と立って尿が出来るのが理解出来ませぬ」
「立って尿など、此の辺の婆様連中は皆遣って居るぞ」「年寄りは良いんです、結婚前の若い娘のする事では有りません」
 縁談にけちを付けられた由里殿は腹の虫が治まらず、仁吉の家を白い馬に乗って訪れた。
「のう仁吉殿、其方の気持ちも分からぬでは無いが、誓約書まで書かせるのは少し行き過ぎで有ろう。其方も立って尿をして居るでは無いか」「妾なら厠を汚すからと言って、其方もしゃがんでしろ等と阿呆な事は決して申さぬぞ」
「其方は人の噂を信じて此の様な阿呆な事を言い出して居るので有ろうが、其れとも実際に見たと言うのか、妾が何処で立って尿を足すのを見たと言うのじゃ、白状致せ」由里殿は仁吉の上に馬乗りに成ってしもうた」
「御地蔵様に立って尿をひっかけた事が有ろうが、覚えが無いとは言わさぬぞ」
「小便地蔵の所か」「見られてしまっては仕方が無い、紙と硯を貸して下だされ」女は覚悟を決めた。
「其方、妾に断わられるのを恐れて、駄々を捏ねて居るので有ろうが、安心せ、妾の方から断わったりは決してせん、此れ以上親を泣かせる訳には行かぬでな」女は見事な達筆で誓約書を書き乍。
「其方、此の様な詰まらぬ誓約書を書かせる阿呆な男との縁談も断る事も許され無い女の無念さは、其方には分かるまい、此の阿呆たれ、阿呆」
「此れで良かか、仏壇の引き出しにでも入れて生涯大事に仕舞って置かれよ、阿呆たれ」
「・・・」
「仁吉殿,腹が立ったら厠に行きたう成り申した、案内してくりゃれ」「真逆、立って尿をするつもりじゃなかろうのう」「仕納めぞ、思いっきり放いみたいものじゃ」由里殿は立って尿を放いて馬に乗って帰ってしもうた。
「何と言う女子じゃ、あんな嫁御と結婚せねば成らぬのか」仁吉は呆れ果てて暫しの間座敷の上で大の字に成ってふて寝をして居った。
 或る吉日に白い馬に乗ってやって来た花嫁御寮の由里殿は、最初の一年は借りて来た猫の様に大人しくして居ったが、軈て身籠もり、子供が生まれると元に戻ってしもうた、誓約書等屁の役にも立たなかたので有る。仁吉も子が出来たら離縁する訳には行か無かったので有る。誓約書の事等有る事すら、誰もが忘れてしまって居ったが。
 長男が年頃に成り縁談の話を聞く様に成った或る日。
「父上、母上の立ち尿は何とか成りませぬか」今度は息子が阿呆な事を言い出した。
「御菊殿は立って尿はせぬのか」
「其んな事する訳無いでしょう」
 姑が亡く成り、四十九日も無事済んで、仏壇の引き出しの整理をして居た時、自筆の誓約書を目にしてから由里殿は可笑しく成ってしもうた。何やら身の回りを整理し始めた。
「旅行にでも行くつもりなのか」「一寸訳有ってな」
 誓約書等有る事すら忘れて居ったのに、今まで守った試し等無かったので有る。
 菊殿がやって来る事に成って居る或る日、息子に再度釘を刺された由里殿は余程腹の虫が治まら無く成ったのか、実家に帰ると言い出して聞か無く成った
「長い間、至らぬ妻で御迷惑を御掛けしました。誓約書も守れぬ女は、離縁されて当然です。離縁される前に身を引くのが人の道かと存じます」
「儂は引き止めたりはせんぞ」
「父上、母上えを引き止めて下さい、帰ってしまいますよ」
「此処へ帰りとう成ったら、又、帰ってきたら良いが」
「帰る前にもう一度だけ目を瞑ってさしてくだされ」
 母上は厠に立ち、立って尿を思いっ切り放いて実家へ帰ってしもうた。
 じっと誓約書を観て居った仁吉殿は。
「此んな誓約書を書かせた儂が阿呆で有った」誓約書を破ってしもうた。
 由里が実家に帰ってしまってからは、家の中が火が消えた様に成ってしもうた。
 三日後に由里は帰って来たが、余程、家の敷居が高いのか、入り辛く門の前でおろおろして居た。
「実家に帰ったら、其んな詰まらぬ事で帰って来るなと叱られてしもうて、追い返されてしもうた。もう何処にも行く所が御座らぬ。もう一度嫁にもらって下さいまし、再度、誓約書は書きますよって」
由里は仁吉殿に泣き付いたので有った。
 仁吉殿は誓約書を由里に書かせたばっかりに二度も同じ女と結婚する羽目に成った。御金も掛かったし恥も掻いた。仁吉殿は、真に阿呆で有った。

              2005−05−29−36−OSAKA

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