映画エリザベート Sissi



 日本語字幕版をお勧め、最近は滅多に聞か無い、上品な日本語に出会えます。最近は王族を廃止して仕舞った国の衰亡が気に成る。日本の天皇の威厳は世界で高く評価されて居る。10月の即位の礼正殿の儀は全世界に報道されるが、西洋とは余りに違う伝統の差で有る。
 姉の付き添いの筈が大変な事に。


「わたしの可愛い人」のロミー・シュナイダーを主演に、戦前「別れの曲」のシナリオを書いているエルンスト・マリシュカが監督・脚本を担当した作品。十九世紀のババリアの王女とオーストリアの王子のロマンスが描かれる。撮影はヘルベルト・ガイヤー、音楽はアントン・プロフェスが受けもっている。他に出演するのは、カール・ハインツ・ベーム、ロミー・シュナイダーの母であるマグダ・シュナイダー、グスタフ・クヌート、ウッター・フランツ、フィルマ・デギッシャー、エリッヒ・ニコービッツ、ペーター・ベック、ヨゼフ・マインラート、フランツ・ベーハイム等。製作カール・エーリッヒ。



 あらすじ

 一八四八年、フランスに起った革命の嵐はオーストリアをも襲い、ハプスブルグ家は危機に立った。ソフィー大公妃(フィルマ・デギッシャー)は夫のフランツ・カルル大公を退位させ、息子のフランツ・ヨゼフ王子(カール・ハインツ・ベーム)の即位をはかった。皇后候補の物色が始まった。ソフィー大公妃は妹ルードビカ公妃(マグダ・シュナイダー)の長女ヘレーネ・愛称ネネ(ウッター・フランツ)に白羽の矢を立てた。一家の主、マックス公爵(グスタフ・クヌート)が宮廷生活を嫌っていたため、ネネの一家はボッセンホーフェンで田舎ぐらしをしていた。父親とともに、自然を相手の毎日をたのしんだのはシシーの愛称で呼ばれる次女エリザベート(ロミー・シュナイダー)であった。ネネとシシーは母ルードビカ公妃と共にソフィー大公妃に招かれてイッシュルを訪れた。シシーは若すぎるため、オースリア皇帝の宴席に出られなかった。しかし彼女はそんなことには一向無頓着だった。裏窓から逃げ出して魚を釣っていると、フランツ・ヨゼフが通りかかった。王子はこの可憐なシシーが一目でお気に召した。シシーも王子が好きになった。二人は互の身上話をして、楽しい一刻を過した。しかし王子が姉の夫となるべき人であったことを知ると、シシーは苦しんだ。宴席にシシーも招待された。宴席上、フランツ王子はシシーばかりをみつめ、シシーとのみ話し、おどった。楽しい夜であった。夜更けて王子は婚約を発表したが相手はシシーであった。ネネは寂しそうであった。一瞬戸惑った大衆は、バルコニーの若い二人を祝福した。ソフィー大公妃はまだ幼いシシーを皇后に迎えることに反対した。しかし王子の熱意は勝った。オースリアの王子が小国ババリアの王女と婚約したことは世界中の人々を驚かせた。森や動物に別れを告げると、シシーはホッセンホーフェンを去った。フランツ・ヨゼフ皇帝とウィーン市民は、シシー女王を歓迎した。結婚の日、シシーはお伽噺の国の王女のように、フランツの先導で静かに祭壇へ向って行った。シシーの眼には喜びの涙が光っていた。



 生涯
バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれた。幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリザベートは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。

そんな生活は1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げた。シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラット伯爵は、彼女が最初に出会ったマジャル人だった。伯爵は共和制の素晴らしさを彼女に密かに吹き込むなど、彼女に多大な影響を与えた。1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。

しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、また、マイラット伯爵の教育を受けたエリーザベトがハンガリーや当時独立を求めていた北イタリアに同情的であることを察したゾフィーは、エリーザベトの影響でフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーやイタリアに寛容になることを嫌い、中傷ビラを撒く、エリーザベトが宮殿の外に出た際には暴徒に囲ませる、といった嫌がらせをした[1]。徐々にエリーザベトは人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、大西洋に浮かぶマデイラ諸島などに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に渡りさまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けた。


ジュラ・アンドラーシ伯爵
特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、帝国外相となる。

エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺であった(1889年、暗殺説もあったが、のちにルドルフの心中相手が自分の母宛に送った遺書が発見された)。夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはなかった。

1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。