巷の恋

 学生の頃、白黒テレビで洋画等の恋愛映画等を観て胸の時めくのを覚えた人も多いと思いますが。私も三時からのテレビ名画座で三日連続で同じ映画を放映していたりして、学校から飛んで帰って、三日連続で胸を時めかして観た経験があります。当時ですら可也古い映画の事、今と成ってはもう二度と観る事の出来無い映画も多い。DVD化され何時でも見れる、最近の映画や名作は其れほど観たいとも思わ無いのに。其の様な映画ほどもう一度観たい思いは、歳を取る程に募るばかりです。二度と観る事の出来無い思い出丈の世界、其れは人の人生にも似て居ます。
 たかが映画ですが、然れど昔の映画は輝いて居たので有る。其の様な私の、もう一度観たい幾つかの映画の中の一つにヴィルナ・リージ主演のイタリア映画に「巷の恋」を上げられます。両親を無くし幼い弟を母親代わりに面倒を見る貧しい娘。娘には労働者風の恋人が居る事には居るが弟が居る為、結婚には中々踏み切れ無い。娘の生活は、塩田で働いたり小舟で海老を捕ったりで大変です。漁権争いで島の漁師のやくざな男とは、何時も争いが絶えない。或日、仕掛けておいたかご型の罠の全てに大きな海老が掛かって居た。男が悪戯をして入れておいたので有る。二人は次第に気を引かれながらも、会えば何時も喧嘩ばかりで有る。そんな或日、急の嵐で娘の小舟が転覆、島の男が助けて自宅で介抱。
「何時もは、あんなに憎たらしい口を利くのに、寝て居る時は如何してこんなに可愛いいんだ。」男の母親も。
「こんな娘がお前の嫁に来てくれたら、言う事無いんだけどねえ・・・」と嘆きながら息子を部屋の外へ追い出してしまう。娘は寝た振りをして居たので有る。
 イタリアは日本と良く似て居ます。水田が有ったり、塩田が有ったりで・・・。まばゆいばかりの太陽の光に満ち溢れた塩田で、スカートをたくし上げて働く、初々しいヴィルナ・リージの演技が輝いて居ました。娘は皆の前で、島で男が言った事をばらしてしまうので有る。今では、老女役の似合ういい歳ですが、時の流れを感じます。
 恋人と島の男との争いが有り。最後に娘は選択を迫られる。ラストシーンでは娘は島の男の船を追って海に飛び込んで泳いで行き、弟も其の後を追っかけて泳いで行きます。
物語の始めの部分と終わりの部分丈が妙に記憶に残って居ると言うのもおかしな話で有りますが。「街の恋」と言う題名で一度はビデオ化された映画は如何やら、昔テレビで観た映画とは別の映画みたいです。原題名が分らなければ調べようが有りません。
 最近、胸が時めく様な映画が少なく成ったと嘆くのは、私丈なんでしょうか、歳のせいなんでしょうか。リメーク版も幾つか製作されていますが、お金を湯水の様に使った大作でも昔の映画を凌ぐ事が出来無いで居るのが現状です。人の心を動かす何かが足り無いのでしょう。
 恥知らずと言う言葉が西洋にも有る事からも、西洋にも人目を恥じる恥の文化が有った事が分かります。少し古い映画等では人目を恥じる場面がちゃんと描かれて居ます。現代の洋画を観て西洋を判断するのは間違いです、古い時代の映画も観て西洋を理解する努力をすべきです。日本人を日本人たらしめて居る、人目を恥じる奥ゆかしい心の、恥の文化も最近薄れて来て居ます。日本では評価されない類の映画が、外国の映画賞を受賞してしまったり、その様な映画がもてはやされたりで。現代の若者の一部では、人目を憚らない遣りたい放題、勝手気ままな恥知らずな行為がたまに見うけられますが。映画は現代を映す鏡です、現代映画がつまらないのは、現代の社会其の物が病んで居るからかもしれません、戦争が有ったり、テロが有ったり、凶悪は犯罪が横行して居る為、人の心が荒んでしまって居るんでしょう。
 昔、ユニバーサルスタジオで「ドラキュラ」の撮影の時、夜中に遊んで居る、高価なセットを利用してスペイン語版も撮影した事があります。同じ原作、同じセット、同じ設備機材を利用しての夜中の撮影。其の両方を母国語に持たない日本人等が其の二つを観比べた場合には思わぬ出来、不出来が事が分かってしまいます。かって、NHKが二週に渡って放映しましたが、スペイン語版の放映の前だけ、主演女優のインタビューをのせました 映画は人生に似て居ますが、人生は映画とはにてもにつかない。今日は明日の為に有るのでは無い、今日こそが全てだ。明日が必ず来るとは限ら無い所に、其処に人生の深い意味が有る。

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