雑巾の如くに

 或るCS放送で「マリー」と言う、寡っての日本映画と錯覚する様な地味なヨーロッパ映画を観ました現代の日本人が忘れてしまった、寡っての日本映画。貧しくて、悲しくも有り、何故か心の温まる映画。最近劇場映画では此の様な地味な映画は滅多に御目に掛から無い。映画の主流は派手なアクション映画が主で、CGを酷使した映画の中だけの、現実には起こりえ無い映像に目を奪われてしまって居ます。社会の底辺で働く人々を描いたヨーロッパ映画は皆無に等しい。
 物語は或る炭鉱で生計を立てて居た平凡な一家に、炭鉱の事故で働き頭の夫が死に、悲しい葬式をすませ、年老いた夫の両親と子供達の生活費を仕送る為に町に妻が出稼ぎに出ます。町では一日中身をこにして働いたてもたいしてお金に成らず、仕送りで殆ど消えてしまいます。信仰深い女は最初修道院の手伝いをしていたが、仕事仲間が死んでしまい、信仰に疑問を感じて街に出ます。まるで雑巾の様に扱き使われる女、疲れ果てて、階段の雑巾掛けのバケツをひっくり返して、又叱られる女。叱られて居るのを見た或る婦人は女を住み込みの手伝いとして雇い家族同様に暮らす様に成ります。
 そんな信仰深い女の唯一の慰みは教会へ言って神父に愚痴をこぼす事だった。此の映画の唯一の救いは女の愚痴の聞き役の気さくな神父の存在です。又、教会の日曜学校の教師でも有ります。西洋では学校を卒業しても教会で日曜毎に勉強を真面目に続けて居るのには驚きです。其の神父は嫌がりもせず、女の愚痴を告白として聞き色々と助言をします。神父自らも、ボランティア活動にも積極的に参加して居ます。 友達も出来、色々と誘惑も有り、女の心は千千に乱れます。お金は貯まっても満たされ無い心。
失望に喘ぐ時、子供達が会いにやって来ます。此処で物語は一端終わりですが、続きがどうやら有るみたいですが。
 此の様な民衆の底辺の生活を描いた、地味な映画が決して日本にやって来無いのは、誰かが算盤を弾いて居るからで有る。儲から無い映画は上映し無いので有る。映画賞の受賞作でもないとまずやって着ません。儲けに囚われて、優れた作品を発掘する熱情は余り見られません。教育的な優れた作品も滅多にテレビでは放映しません。アダルトDVDを買うお金が有っても、教育的な地味な映画のDVDを買う人は又少ないです。
 日本では余り評価の対象に成ら無い類の映画が、外国の映画賞を受けてしまったり、作品に対する芸術感が大分変わて来て居ます。又、其の様な映画が持て囃される様にも成ります。
 字幕の無い外国の映画で言葉の意味が良く分ら無くても、喜びや悲しみが伝わって来るのは、映画の大きな力です、言葉の壁を越えて、訴えるものが有ります。優れた作品に出会った喜びは御金では買え無い貴重な財産です。其の様な教育的な地味な映画を発掘し、放映して行く様に放送局に政府も推奨すべきです。




              職場でのセクハラには注意しましょう。

 本人が善意で言った事でも、相手に誤解を受ける場合も有ります。職場での日頃の言動には充分に注意しましょう。其れは映画の中でにおいてもや、見受けられます。或るヨーロッパ映画の一シーンを紹介しましよう。
 女の余りの粗暴な仕事振りに、遂に堪りかねて。
 男「何て女だ、御前みたいな女と結婚したがる男の顔が見たい」
 女「ほほうー。じゃー鏡を見たら」
 男「な、何だって。如何言う意味だ」
 女「隠しても駄目、私に気が有る事位、ちゃんと分かって居るんだから。だから私の気を引こうと、毎日毎日虐めたおすのよ」
 男「言うに事かいて、何て事を言い出すんだ」
 女「心配しないで、私は訴える様なタイプの女じゃ無いの、貴方の想いを叶えて、結婚してあげる」
 男「○×▽?」
 口は災いのもと、努々軽はずみな言動はなされません様に・・・
 しかし、何も言わなければ、一生結婚等出来無いのも又、事実です。









                                                                                                  




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