見返り美人

 浮世絵の元祖と称される、菱川師宣の「見返り美人」は参百年も経った今でも、色褪せずに人の心を魅了し続けて居る。弐百五拾年後に戦後初の記念郵便切手の図案にも成り、其の名は海外に迄知れ渡った。 其の絵は浮世絵の版画では無く肉筆画で有る。正面から画居た美人画は世には数多在れど、後ろ向きに画き思わせ振りに見返らせた処に作者の渾身の思いが籠められて居るのか。単純な曲線丈で立体感を表現し、人の心を魅了し続けて来たので有る。不可思議なのは其の紙人形の様にも見えなくも無い、装飾的な作風に永遠の命が宿て居ると言う事有る。
 小学校の図工の時間に教室に白百合の植木鉢を持ち込んで、写生をした事が有る。誰もが見た儘に画くのが写生だと思い込んで居た。先生も一緒に写生に参加して出来栄えを見せて貰って、画の方が実物よりも生命観に溢れて居る様に見えた。目の錯覚か、心の錯覚で有る。芸術の真髄を見る思いがした。
 見える物を見た儘に写生するクールベの様な画風は、写真技術の進化で評価も低いが大事な事で有る。現代では写真に撮り、大きく引き伸ばしカーボン紙で画用紙に写し、塗り絵の如くに素人でもそこそこの絵は描けるが。写生を疎かにしては名画等が生まれる筈も無い。昔は師匠の絵を手本に何度も写生して腕を磨居たものでも有る。花は其の内萎れ、枯れ落ちるし、果実は腐ってしまうが、画に描かれた華や果物は永遠に変わら無い。
 中国には想像上の動物が多数存在する、龍や麒麟は余りにも有名で有る。十二支の中に実在し無い龍が入って居て、身近に居る猫が入って居無いのも不思議では有るが。西洋にも想像上の動物も多いが何故か不自然なドラゴンが多い。空想上の龍を見事に書き上げた画家も、実在する虎と成ると猫の様に成ってしまったりもする。空想が現実を超える心の錯覚が存在する。
 学校の図工の時間には襖絵や着物や暖簾の柄、風呂敷や包装紙の様な装飾的な絵を画く子には注意する自由奔放に画かせた方が画の才能が清水の如くに湧き出ると言うので有る。世界の至宝でも有る、日本の国宝や重要文化財の画にも何故か装飾的な物は存在する。俵屋宗達の国宝風神雷神図屏風は、誰も見た事の無い神様を描いた世界の至宝中の至宝で有るが何故か象徴的、装飾的でも有る。緒方光琳の紅白梅図屏風も、苔生した老紅梅には不自然な若い枝が真っ直ぐに上に伸びて居る。真ん中を流れる小川の水も抽象的な図案で装飾的でも有る。装飾的な画も見直されるべきか。漫画の元祖とも居える、国宝鳥獣人物戯画も甲巻は生命観が躍動する線で描かれて居るが、以下の巻に成ると何やら同じ人が画いた絵とは思え無いく成るので有る。書き損じも出て来るので有る。人の人生の如くで有る。
 女性に真の女性らしさ、弱々しい病人の様にも見える、かっては居た優しい女性を求めた続けた、竹久夢二の画いた絵の、黒猫を抱いた黒船屋も人の心を引き付けるものが有る。黒猫に作者の想いが籠められて居るかの如くでも有る。
 国宝平等院鳳凰堂の鴟尾の上の空想上の鳥の鳳凰は夫婦和合の象徴でも有る。十円銅貨の図案にも成って居る。壱萬円紙幣の裏の図案でも有るが、教材に紙幣を使うのははしたない事なのか、図案を真似る様には誰も言わ無い。世界に誇れる日本の紙幣の格調高い図案も装飾的でも有る。最近は何故か弐千円札は余り目にする事も少無いが。学校では極端に嫌われる、装飾を絵画に取り入れた画家も居る。曲線の魔術師と称される、アルフォンス・ミュシャで有る。万華鏡以外に真に美しい物を見る機会の無かった人にとっては美の衝撃で有った筈。美しい花もより美しい華に描かれるので有る。現実を超えた世界でも有る。其の絵も装飾的で有る。タイルの模様の様でも有る。優れた作品は作者の歿後も、永遠に人の心を豊かにし続けるので有る。しかし凡人が趣味で描く、日曜画家にとっては御金が掛かるので有る、絵の具代も可也の物と成る。死んでから値が付いて売れても本人には判ら無いので有る。
 回教は偶像を拝さ無い、世界でも珍しい宗教でも有る、コーランの経典の中に神を感じるのか、声を出して御経の様に何度も読む事が善い事とされる。宗教心の為に命を捧げる人すら居る。日本人は元旦には初詣に出かけ、信仰深く見え、神式で結婚式を挙げ、仏式で葬式を挙げても殆んど無信仰でも有る。回教のモスクの幾何学模様は理解しがたが、美しいとは感じるのも不思議で有る。スペインのアルハンブラ宮殿の装飾に感動する旅行者も多い。グラナダの御土産の金銀の象眼細工には誰しも心を奪われる、装飾の極致でも有る。鳳凰の図案の百円銀貨に惚れ込んだ人が居る。稲穂の図案の銀貨に成ってがっかりした人も多かった筈、そして、更に桜の花の図案の白銅貨に成って又又失望した人も多い。今では鳳凰の百円銀貨は古銭商の陳列棚でしか目にする事は無い。自動販売機にも最早使え無い。貨幣の歴史は段々に悪く成る価値の退化の世界でも有る。昔は小判の金の含有率も次第に少なく成ったので有る。インフレに成って貨幣価値が下がり玉子を買うにも札束が要った時代も有った。紙幣の印刷が追いつかずに片面印刷で出した事も有る。そう成ると通貨単位切り上げ(デノミネーション)を言い出す政治家も出て来る。戦時中は高価なかねの火鉢迄供出した惜しい逸話も有る。金属の貨幣が作れず、陶器の貨幣まで作られた。
 昔、肉筆画等は高価で武士や一部の豪商、豪農丈の贅沢で有った。其れを版画で多数の部数を刷る事で庶民にも手に入る様に成ったので有る。現代のプロマイドの様な物でも有ったので有る。新聞の元祖の瓦版も多数刷られた。有名な舞台役者の顔も多数刷られて居ったものでも有る。勿論枕絵の需要も有り。性教育の手習い書でも有ったので有る。浮世絵は西洋に迄渡り、ゴッホ等の西洋画に大きな影響を与えたので有る。大胆な構図と鮮やかな色彩が西洋人に、日本への思いを掻き立てたので有る。日本への特別な想い、ジャパニズムの世界でも有る。何が日本的なのかは個人に由っても違って来るが、着物の柄の図柄の様な美しい日本で有って欲しいものでも有る。春の季節には美しい花が咲き乱れ、花びらが川面に落ち、花浮き橋を作る美の世界でも有る。白砂青松の世界でも有る。水墨画の雪景色の世界でも有る。
 花が咲き乱れ、環境が良く成り、青空が澄渡り、夜には降るように星が輝き、河を悠然と泳ぐ真鯉が水が澄んで見え、淀川の水を飲んでも腹が駄々下りに成らずとも、男と女がいがみ合い、世に痴れ者、犯罪者、殺人鬼、鬼畜が蔓延して居っては、人の幸せは永遠に遣って来無い。朝な夕なの感謝が無く成ったと宗教家の様に嘆く人も居る。文明機器が進化を遂げても人の心迄はそうは進歩し無いので有る。美しい物を美しいと感動出来無い、受難の時代でも有る。現代が管理社会でも有る。生産さえ上げれば良かった一昔前が懐かしい、其の品質の管理不足を悪用して、企業を脅す族迄出て来た。クレーム魔で有る。食品の中に人毛が這いって居た、虫が這いって居たと嘘を吐き御金を脅し盗ったので有る。行司の差し違えも文句を言わぬのが日本の国技の相撲で有った。其の力士自体が外国人も多く成った。日本語の憶えの速さのも驚きでは有るが。社会保障の額が勝手に減らされても文句も言えぬのが老人で有る。やがて消え行く者には政府も御金を使いたく無いのか。遣る瀬無い世界でも有る。
 最近では言葉迄自由に使え無い時代で有る。方言すら使う人も少ない、其の言葉は差別用語で使ってはいけないと言い出すの出る。一昔前の辞書に載って居る言葉がで有る。難儀な時代でも有る。差別用語を使って居ると今まで何の疑問を持た無かった童話、絵本、昔話迄悪書扱いで有る。一寸前の古い映画に出て来る言葉でもで有る。古い映画の後で謝罪のコメントが必要と成る。
 夢の中では振り向くと別の世界が開けたりもする怖ろしい世界で有る。バスに乗って居ても何処へ行こうとして居るのが判ら無い世界で有る。現代の混沌の世界を暗示して居るかの如くでも有る。振り返っても最早古き好き時代には戻れ無いので有る。
 浮世絵の中には枕絵、春画、危な絵も有り、昔から芸術か猥褻の議論、物議を噛まして来た。発禁本に成った小説も有る。チャタレー夫人の恋人の裁判は余りに有名で有るが。現代のインターネット上に氾濫する猥褻な映像、画像は何なんで有ろうか。男は年老いても色事の病は治らず、大金を叩いて買い集め土蔵の奥に猥褻画を大切にしまって居ったものでも有った。水着を着た女性を見ても何も思わな無いが、着物を召した女性の裾が春風の悪戯で少し捲くれた丈でエロティシズムが発生するので有る。スッポンポンの女性よりもエロチシズムが出ると言うのも不思議な話で有る。見ては成るぬ物程見たく成るので有る。 世の中が乱れて来ると制服を着た凛々しい若い隊員に憬れる人も多い。憲法を改悪しようと言う目論見も有る。自衛隊が自由に海外に派兵出来る様にする為で有る。戦前の軍国主義に戻るので有ろうか、歴史は繰り返されえるのか。兵を動かせば戦争に撒き込まれる虞れも発生する。同じ過ちを二度繰り返さ無い為にも、歴史をもう一度振り返って見てみましょう。母者を呼び乍死んで逝った、若者の悲しみを二度と起こさ無い為にも。戦争に成っれば、背に腹は変えられず、浮世絵等の美術品も米に代える為に、二足三文で売られたりするので有る。焼夷弾が雨霰と墜ちれが皆焼けてしまうので有る。





          2007−03−18−209−02−01−OSAKA



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