御仏の御手の如く

 十一面千手千眼観音菩薩は千の手と千の眼を持って、助けを求める人々を救う、誠に頼もしい御仏で有る。手に持って居る道具は古い教典に定められて居て、仏師の好みに依る物では無いので時代が代わっても余り変わら無い。御仏も道具を使わ無いと人を救え無いのも不思議では有る。御仏を信じれば救われると言うものっでは無い様で有る。御寺に詣でて、住職の有り難い説法を聴いて心が癒されるのも健康で有ってこその話でも有る。薬師如来も病苦を治す法薬を与える、医薬の御仏として信仰を集めて居る。
 御仏の御手の道具は又諸刃の剣でも有るし、薬は毒にも成る。数多の生物が己の体を進化させて目的を達成して来たが、道具を使えば其の進化に要する時間を節約出来る。人の英知こそが御仏の御手の如くでも有る。薬は又麻薬にも似て居る、初めて服用した時は少量でも激烈に効くが、其の内効か無く成って来る、量も増えるし投薬の回数も多く成る。飲ま無いと苦痛が発生する禁断症状も有る。薬代を捻出為る為に犯罪に走る人も。新薬の開発に莫大な研究費と地道な手間が掛かる。新薬として医薬品として商品に成るのは極一部で有る。研究費を溝に捨てる事に成る場合も有る。其れを知って居乍医療費の削減の為に政府自らジェネリック医薬品の使用を推奨したりもする。特許の切れた医薬品を格安で大量に製造するの有る。研究費は要ら無いので有る。莫大な研究費の確保は難しく、開発メーカーのジェネリック化も進んで居る。開発会社の前途は多難で有る。今日の幸せの為に明日の幸せが犠牲に成って居るので有る。政治家は自分の任期の間丈良ければ良いので有るか。選挙権を持たぬ子供達の未来の幸せの事等は考え無いので有るか。
 中国には千手観音と言う舞踏が有る。一糸乱れぬ集団舞踏で有る。日本でも以前にも紹介されて感動を与えて居る。以前に大阪でも公演された事も有ったのは驚きで有る。聴覚に傷害が有り乍の舞踏集団でも有る。正面から観れば、一体の千手観音の様に見える。後ろの人は顔が見えず手丈の舞踏と成る。日頃の修練の賜物で有ろう。神業に近く思わず手てを合わしたく成ります。DVDも発売されて居るが、中国製でリージョンフリーのDVDデッキで無いと再生出来無いので注意が必要です。パソコンでは再生ソフトで問題無く再生出来る場合も有りますので心配は要りません。当然手話を使っての舞踏の練習と成る、指揮者の如くに合図を送る人は居る。六分弱の演技時間の中に日頃のい練習の成果が籠められて居る。人の手が御仏の御手に見える瞬間でも有る。
 世界には、唯一無二の絶対の神が全てを掌るのを信じる宗教も多いが、仏教では色んな御仏が信仰の対象と成る。有り難い説法丈では信じられ無いと思う人も多かったのか、具体的な道具を携えた御仏は誠に頼もしい限りで有ったので有ろう。邪悪な心を諌める為に手に武器を持ち、噴怒の形相の御仏も有る。
 神社に置いては、道修町には少彦名神社に医薬の神様の神農氏が祀られて居る。張子の虎で有名でも有る。道修町の製薬会社中には有り難い事に社員に配る処も有る。病苦を救いたいと言う思いは、昔も今も個人も企業も変わりが無い。
 昔、熱帯のジャングルの原住民に現代医療を広めるのは至難の業でも有った。マラリアの特効薬のキニーネが怪しげな祈祷師も利用して居たのを思うと、其の祈祷師を教育し、医療を進め、新しい宗教を広める事が植民地化の一歩で有ったので有る。先祖伝来の神々や精霊、言葉迄捨て去って迄、欲しかった物とは何だったので有ろうか。僅かの御金か、便利な道具か。一万年の間に道具は大きく進歩を遂げたが、人自体の進化、人の心の進歩は僅かで有る。三日先の天気等は昔は神仏の世界で有った。祈祷師や占い師、巫女にも予測するのは至難の業でも有った。しかし、現代では可也の確率で予報出来る。地道な観測、膨大なデーターの集積、コンピューター解析の高速化、経験有る気象予報師の感の賜物でも有る。コンピューターの進歩も目覚しく、かっての業務用の大型汎用機の電子計算機並みの能力を備えたパソコンやゲーム機も発売されて居る。ワークステーションやサーバー用の高性能コンピューターもパソコンとして利用出来る。
 道具は限り無く進歩を遂げても、人の心は千手観音菩薩の心には到って居無い。
 火蓋を切ると言う言葉が有る、戦いが始まる事で有る。獲物を仕留める為の道具が戦争に利用さらたので有る。道具の諸刃の剣の象徴でも有る。銅剣の発明、火薬の発明、鉄砲の発明、大砲の発明、戦車の発明、飛行機の発明、原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾の発明、原子力潜水艦、原子力空母の発明、大陸間弾道ミサイル、動く物全てを攻撃するロボット兵器、生物丈を殺す細菌兵器、武器も際限無く進歩を遂げてしまて居るが、其れを使用する人の心は観音菩薩の心には今だ到って居無い。
 鉄砲伝来の時、見よう見真似で似た様な鉄砲は作れても肝心の部分が解ら無い、最愛の娘を人身御供に供して迄知りたかった技術とは日本には今まで無かった、螺旋を切る技術で有る。無理矢理言葉の判らぬ異国の地に連れて行かれた鉄砲鍛冶屋の娘は悲劇では有るが、正妻として母国に連れ帰り、誰も見る事の無かった異国が見れ、妻として大事にされたので有れば真に不幸で有ったとも言え無いが。異国の人、異邦人にも紳士は居た筈。
 小説宮本武蔵に遊郭の上臈如きが、剣豪武蔵に説教する場面が有る、逆鱗に触れて手打ちに成るかも知れぬのにで有る。映画でも重要な山場の一つで有る。武蔵を諭す為に高価な琵琶を割って中を見せる有名な場面で有る。菩薩の心を垣間見た気に成った人も多い筈。強い丈では相手に勝て無いので有る。企業に置いては作業手順が事細かく決められて居て、誰が作っても同じ物が出来る様にして居る。品質の維持の為で有る。特別に良い物を作る必要も無いので有る。百の茶碗を焼いて出来の悪い物は割ってしまう芸術作品とは違うので有る。品質は均一化するが作業の喜びは半減する。菩薩の心とは人間をロボット化する事では本来無い筈、何やら複雑な気持ちに成る昨今でも有る。会社も定年退職をすると縁も切れてしまうので有る。退職者の代わりは幾らでも雇えるので有る。企業に於いても御仏の心が必要か。
 加減の筆算は割りと簡単に出来るが乗除の筆算は殊更難しい。電卓に慣れ親しんだ人は大変で有る。九九の表を小学校で覚えさせられるが、覚えて仕舞えば出来る様に成り便利でも有る。インドでは九十九九十九の表を覚えて居るらしい。覚えるのが大変では有るが、覚えてしまえば可也の計算も暗算で出来る事に成る筈。零の概念を発明したインド人の面目躍如か。平方根の計算も中学一年の時に習った筈だが、今だかって計算した事が一度も無い。微分や積分は見た事すら無い。必要の無い事も教えるが必要以上の事は学校では教え無いので有る。塾では試験に出る事しか教え無いので有る。入学試験は教科書の中から出るが皆同じ教科書を使って居る訳では無い。学校の授業より塾を大事と考える受験生も多い。授業中に先生の声が子守唄の如くにに聞こえるのか、気持ち良くて熟睡してしまう生徒も居る。
 病気で身体にメスが入るのは誰しも嫌な物でも有る、薬で治るものなら薬で治したいものでも有る。外科の手術で悪い患部を切り取ってしまえば、元通に健康に成れるので有る。外科的な治療も重要なので有る。手術を執刀する外科医の手は殊更重要で有る。怪我を為て化膿でも為れば手術も出来無い。人間の手が自由自在に動く事で多くの恩恵を受けて居る。自然界には無い物を色々作り出して来たので有る。自然界に無い物とは、神仏にも作れ無かった物で有る事が重要で有る。
 利き腕を怪我した時の不便さは殊更で有る。此処一番の大事の時には利き腕で無いと巧く動か無い。左利きの人は数も少なく何かと損をするが器用な人が多い。外国には文字迄左手で書く人も居る。日本人は箸を使う為、子供の頃に厳しく躾ける為に、左利きの人は珍奇に見えるが左利きが居無いと思い込んでしまうのも不自然では有る、居て当然でも有る。
 子供の頃、御腹が痛くかったり、腹が立って寝られ無い時に母に御腹を摩て貰った経験が有る。不思議と治まったもので有る。母の愛は妙薬より良く効いたので有る。人は病に臥せると婦人の看護師(昔の看護婦)の暖かい手の温もりは格別の思いが有る。母の手や御仏の御手にも思えるので有ろう。魅惑的な美人の婦人看護師なら尚更でも有る。プラシーボ(主薬の入って居無い偽薬)も効いてしまいそうで有る。御仏の御手の成せる業でも有る。病院で知り合った看護師と結婚してしまう人も多い。
 孫悟空は觔斗雲に乗って、一跳びで十万八千里を飛べる。此の世の果て迄行った心算でも結局は御仏の御手の中で遊んで居たに過ぎ無かったので有った。巨大な御仏を造りたい想いは古代には有ったので有る大仏建立の一大事業で有る。大仏を鋳る技術や人材も大変だが、原料の銅や炭の調達が大変で有った。巨大な伽藍を建てる為の木材の切り出しも又大変で有った。内より肝心な事は資金の調達の勧進に全国を行脚した人が居て、御心を汲んだ人の多かった事で有る。軟な縄では切れてしまい柱が立たず、長い大事な象をも繋ぐと言われて居る黒髪を奉納した女性の多さで有る。技術に頼り過ぎ、御仏の心を忘れてしまった現代の日本の不幸が存在する。
 御料理は少し手を抜くと味に結果が現れる為に、美味しい料理を作る、母や妻の愛を感じて居る人も多い。御料理の上手な妻を娶った人は幸せ者でも有る。御仏の御手の如くで有る。西洋料理では胡椒や月桂樹の葉等のスパイスを使うたりもします。僅かの量で味が引き立つ為に親子代々の伝承にも成る、家の秘伝でも有る。テレビで老舗の料亭の料理を紹介したりもします、作り方をひつこく聞き出したりもしますが、同じ様に家で作ってもても其の味は出ません。映ら無い処で何かを入れて居るので有る。門外不出の秘伝が有るので有る。インド料理のカレーはスパイスの見本市のようでも有る。本来は家毎にスパイスの種類、配合率も異なり、全部違った味で有った筈では有るが。市販のカレーのルーに何が入って居るのか誰しも気に成る処でわ有る。以前にカレーのルーの中から柿の種が出た来た事が有った。柿も入って居る事を発見してしまった。隠し味の心算で干し柿を入れて炊くと渋柿に戻ってしまう事を知らなんだ失敗例も有るが。
 一人暮らしの男の気紛れ料理の定番はカレーで有ろう。簡単に男でも作れるし、得に失敗も少無い。しかし問題は多く作り過ぎる事で有る。肉を多く入れたからと言って美味しく成る訳では無い。失敗した時には不味いカレーを朝昼晩と食べ続けねば成らない不幸が待って居る。
 最近の恋人達は手を握り合ったりわしないので有ろうか、目を見詰め合い、手を握り合っても心が通う筈。そんな経験すら一度も無い人も居ると言うのも余りに悲しい話でも有る。
 手を良く動かすと中風に成ら無いと言う言い伝えも有る。呆け防止にも成るが。昔の様に手作業も少なく成って便利な昨今の社会では手を動かすのも難しい。素人が手作業で作った物等売れるとも思え無いのが現状で有ろう。以前にボランティアと称して障害者の手作りの物を販売に来られた事が有った。可也高かったので有る。寄付の心算で買う人も多いのか何やら複雑な気持ちに成った。百円ショップで売って居そうな物で有った。東南アジア等で如何に低賃金で大量に作られて居るかが想像出来ます。其の人件費の安さ、法的規制の緩さの魅力に吊られ、海外に工場を作る大企業も多い。
 一つの竹篭の中にも、其れを作った人の慈しみ、御仏の御手の如き慈愛、其れを感じる人の心の感性を高めたいものでも有る。
 大分前にNHKが懐かし映画館で魔人ドラキュラの映画を二週に渡って放映した事が有ります。英語版とスペイン語版の二つで有る。ユニバーサル・スタジオが昼間に英語版を作り、夜に遊んで居る高価な映画のセットを利用してスペイン語版を作ったので有った。吹き替えの技術の未だ無かった昔の話で有る。日本には英語版しか入って来なかったので、スペイン語版等見た事も無い人が大方で有った。最近に成ってレガシー版が発売されて居る。英語版とスペイン語版の両方が観れます。同じ原作、同じ脚本、同じセット、同じ撮影機材。当然俳優丈が違います。監督はスペイン語が話せなかったとか、勿論通訳は居たので有るが。二つの映画を見比べて芸術の評価とは何か想いを馳せましょう。英語圏の人は英語版しか見無いし、スペイン語圏の人はスペイン語版しか見ません。日本人が両方を見比べる事に意味が有ります。現代は吹き替えの技術が進歩し、夜中に高価なセットが遊んで居ても態々二つも作る事は皆無でも有る。貴重な存在でも有る。スペイン語版には主演女優によるイントロダクションが付いて居ます。映画自体の評価はスペイン語版の方が優れて居るが、其の分魔人の不気味さに欠けるのも余りに皮肉な結果で有る。是非御自分の目で観比べて評価をして頂きたいもので有る。芸術とは何かが屹度判る筈。
 日本の邦画も同じ原作で幾度も映画化されて居る映画も有る。観比べて芸術性の違いを学びましょう。最近は工程管理が厳しく誰が作っても同じ品質のものが作れるが、物作りの中の心が失われつつ有る様にも思える。一人一人の心の中には宇宙が存在する筈。企業の価値は上がっても、従業員への慈しみの心は失われつつ有る様に思える。地下鉄でサリンを撒いた教団が名前を変えて今も組織の拡大を狙って居る現状を何と理解してら良いので有ろうか。外国では相変わらず自爆テロが後を絶た無い。自分の命より大事なものとは何なんで有ろうか。
 かって罪と罰の作者の文豪ドストエフスキーが死刑体験の中で楽しい思い出丈が走馬灯の様に頭の中を巡ったと言って居るが、誰しもそうで有って貰いたい物で有る。一度も死んだ経験が無いのに死ぬ夢を見るのも不思議では有る。死ぬる時に取り乱すさ無い様に、予行演習か。かって樹上生活をして居った進化の名残か、落ちる夢も多い。樹から降り、大地に立った時、手が樹を握る事から開放されたので有る。最早落ちる恐怖も無く成ったので有る。しかし、手が自由に成った途端に悪さも始めたので有る。
 朝な夕なに先祖に感謝して手を合わせる人も少なく成った。御寺の和尚の有り難い説法より脚の痺れが気に成るので有る。千手観音菩薩が手に持って居る道具の一つ一つの意味を良く考えましょう。本来人を不幸にする文明の利器の事では無い筈。







          2007−04−15−214−03−01−OSAKA



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