Besame Mucho

Besame, besame mucho
Como si fuera esta la noche
La ultima vez

Besame, besame mucho
Que tengo miedo a perderte
Perderte despues

Quiero tenerte muy cerca
Mirarme en tus ojos
Verte junto a mi
Piensa que tal vez manana
Yo ya estare lejos
Muy lejos de aqui

Besame, besame mucho
Como si fuera esta la noche
La ultima vez
Besame, besame mucho
que tengo miedo a perderte
perderte despues

Besame, besame mucho

キスして、いっぱいキスして
まるで今夜が最後のつもりで
キスして、いっぱいキスして
だってあなたを失うのが恐いの
いつかあなたを失うことが。

(リピート)

私はあなたの近くにいたいの
あなたの目の奥深くのあなたを見るため
あなたがとても近くにいることを確かめたくて
多分、明日には
私は遠くにいることと思うわ
とてもあなたから遠くに。

キスして、いっぱいキスして
まるで今夜が最後のつもりで
キスして、いっぱいキスして
だってあなたを失うのが恐いの
いつかあなたを失うことが。

だってあなたを失うのが恐いの
いつかあなたを失うことが。

             日本語詞 鈴木 勝氏 

ベサメ ベサメ・ムーチョ 燃ゆる接吻(くちづけ)を交すたび 
べサメ ベサメ・ムーチョ いつもいつも流れる曲(しらべ)
どんなに雨が降っても 風が吹き荒れても
もう一度 またもう一度 燃ゆるあの接吻(くちづけ)
べサメ ベサメ・ムーチョ 私のすべてはあなたのよ
べサメ ベサメ・ムーチョ いつもいつも いつまでもよ

 何故悲しい歌が流行するのか、人は自分丈が悲しいと思い勝ちで有るが皆悲しみを持って居るので有る余りにも悲しい歌は日本人の好みに合わ無いのか歌詞を日本人好みに代えて流行させる気合が有る。有名な歌は多くの言語に訳され歌われる。スペイン語の歌がフランス語で歌われても日本人には其れ程違和感は感じられ無いが、英語に訳された歌は学校で英語を習った為か意味が判る人も多いが何故か違和感を憶える場合が多い。オリジナルの原語で聞くのが一番で有る。歌を手に入れるにはCDを購入するのが一般的で有ったが。目的の一曲の為に多くの歌の入ったCDを購入する事と成る。最近ではインターネット上でのダウンロード販売も有る。音楽用のファイルの拡張子の種類も多く巧く再生出来無い場合も有るので注意が必要。64ビット版のブラウザでは無料のプレイヤーがインストール出来無い場合も有るので注意が必要。64ビットのOSでも32ビット版のブラウザを利用すると可能。YouTube等で多くの歌も聴く事が出来る。メキシコの女流作曲家でピアニストのゴンスエロ・ベラスケスが1941年に作曲。傑作を何曲も世に出したが。「ベサメ・ムーチョ」が余りにも有名に成って仕舞った為に、日本では他の歌は「カチート」以外は一般に余り知られて居無いとか。半世紀も世界中で歌われ続けて居るのも驚異で有る。スペイン系の国でも色々のバージョンが有る様で有る。歌い方も若干違う。美人の歌手が必ずしも上手とは限ら無いのも注意の居るところでも有る。直立して歌う丈の素人に近い歌手でも上手な場合も有る。此の歌は悲しい歌で有るが、男女の愛の歌と勘違い為て居る人も意外と多い。
 ヨーロッパでは昔から食事を取り乍、酒を酌み交し乍、舞台の歌や踊りを楽しむ風習が有った。日本でもホテル等で食事付きのナイトショー等も行われるが、チケット代が可也高い。酔っ払いの評価を受け乍歌うは辛いところも有る。オーソドックスな歌い方では飽きられる。自分流に歌い方を代えたりで有る。昔はマイクも無く、場末迄響き渡る様に歌うは至難の業でも有った。教会等で良く歌われる賛美歌は神を賛美する特殊な歌では有るが、天使の歌声にも聞こえる清純さを好感して宗教を越えて関心を持つ人も多いが悲しい歌が多い。やがて自分自身に訪れる永遠の闇夜から免れる事は神の力をもってしても出来無い為でも有る。此の歌も本来の悲しい歌詞の意味を解せず、題名のイメージが強く、男女の熱愛の歌と誤解して愛好して居る人も意外と多い。自分の死期を感じて人生の最後に最愛の伴侶に接吻を求める余りに悲しい歌で有る。歌手自身も恋愛の楽しい歌として歌う人も居る。スペイン系の歌は子音の数が少なく日本人には英語やフランス語よりも聞き取り易く歌い安い為関心を持つ人も多い。ユックリした此の歌の様な歌なら日本の歌と余り変わら無い、日本の歌詞でなく原語で楽しんで貰いたいもので有る。
 老人が自分の死期を覚る事例は多い。身の周りを整理し出したり、矢鱈風呂に入り身を清めたがったり、昔の旧友に会いたがったりで有る。人は一度も死ぬ経験をした事が無いのに死ぬ夢を見るのも不思議でも有る。川に嵌ったり、樹から落ちたいで有る。死ぬ瞬間に目が覚めるので有る。実際に死ぬ時は目が覚め無い。実際に死ぬるは罪と罰の文豪ドストエフスキーの言う様に、楽しい想い出丈が走馬灯の様に頭の中を過ぎって貰いたい物でも有る。死ぬ時に取り乱さ無い為の死の予行演習か、肉食獣に襲われた草食獣が余り苦しま無いのも不思議で有る。麻酔を掛けられる時も擬似的な死のイメージも感じる。献血の時も死のイメージを感じ、献血が嫌な人も居る。血液検査の採血すら嫌な人も居る。
 西洋に海外旅行に出掛けて若い男女が人前でも平気で接吻を為て居るのを目に為て唖然と為る所でも有る。日本人は接吻には馴染みが少ない。人前で為る等想像も出来無い恥ずかしい事でも有る。日本丈が恥の文化の国と思い込んで居る人も多いが、西洋の古い映画等では人前での接吻を恥じる描写が有る。西洋も昔は恥の文化が有ったので有る。恥晒しと言う言葉も辞書に載って居る。日本の学生は不幸で有る。受験地獄でも有る。親の期待が大き過ぎ期待に応えられ無い学生が多い為で有る。青春の真っ只中に有って恋も出来ずで有る。接吻等した事無しで青春が終わって仕舞う人も居る。受験地獄を乗り切って、気が抜けて仕舞ってか本業の勉学に身が入ら無い大学生も居る。女子大学生は大学に入れ無かった男には洟も引っ掛け無いし、企業内では学閥も有る。西洋映画を観ていて意外に思うのは、男に愛される事を願って結婚するので無く、男を幸せに為たいと思って結婚する女性が多い事で有る。動物も愛の表現として子が親に餌を強請る甘えの表現を取る場合が多い。猫は脚に纏わり着き甘えの表現を見せるが、飼い主を愛おしんで居るか疑問でも有る。犬も人の顔を矢鱈舐め回すが顔の汗の塩分を舐めて居るので有ろう。其れ等を愛と勘違いし、犬にちゃんちゃんこを着せ座敷に上げるは頓珍漢で間違いで有る。飼い犬に手を咬まれるの例え有り。洋画には素敵な接吻シーンも多い。子供向けのディズニーの映画にも登場する。日本人が観ても猥褻な感じは受け無いのが不思議でも有る。ラテンドラマでも良く登場する、女の裸やベッドシーンは滅多に出て来無いのにで有る。接吻シーンを使え無い日本のドラマは暴力的でも有る。男が自分に気が有る事を知ってて叩き返され無いと思ってか矢鱈男を叩く女性が出て来る。ドラマの中丈の世界でも有る、実際に警察だたにでも成れば先に手を出す女性に不利で有る。西洋映画では叩けば倍の強さで叩き返される事を知ってか滅多に出て来無い。どっちが先に手を出したが当然問題に成る筈なのにで有る。不条理を日本の愛の表現に使って居るので有る。日本女性は暴力的と勘違いして仕舞って居る外国人も意外と多い。日本には昔から母性に手を上げずの戒めも有る。女を叩く男は屑で有ったので有る。古代からの伝統でも有る。女は弱し、されど母は強しで有る。子を産み育てる事が嫁の努めでも有ったので有る。嫁に嫁いで三年経って子が出来無い事を理由に実家に出戻らされたので有る、酷い話では有る。
 排泄器官が性器と隣接して居る為に、汚いと言うイメージの他に猥褻、卑猥なイメージも有る。女性の小用に関心の有る殿方も多いが。反対に口は清らかなイメージが有る。愛の表現に性行為の代用にされるのも当然では有るが日本人には理解出来無い。男女の交接の前戯として昔から行われて居たが人前で為て居た訳では無い。秘め事として行われて来たので有る。最近の若い男女は西洋風に人の視線を気にせずに電車の中でも平気で抱き合ったりで有る。人の見て無い処では何を為て居るのやらと変な想像も為て仕舞う昨今では有る。








          2008−07−22−346−01−01−OSAKA



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