映画「戦艦ポチョムキン」

 映画『戦艦ポチョムキン』(せんかんポチョムキン)(ロシア語:Броненосец «Потём кин»ブラニノースィツ・パチョームキン)は、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作され、1925年に製作・公開されたセルゲイ・エイゼンシュテイン監督によるソビエト連邦のサイレント映画。1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を元に製作されているが、終盤の黒海艦隊の多くの艦が反乱に同調する(実際は数隻のみ)など史実とは大きく異なる部分も多い。
 1905年、前年に始まった日露戦争が2年目に入り、帝政ロシアでは厭戦気分が蔓延し始めていた。1月には、首都ペテルブルグで「血の日曜日事件」がおこり、皇帝ニコライ2世の弾圧政治に対する不満が、民衆のみならず兵士にまで及んでいた。こうしたなかで同年6月に起こったのが「ポチョムキン号の反乱」だった。これらの一連の動きは「第一革命」と呼ばれ、1917年のロシア革命につながる伏線となっていく。
 1905年、ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号には不穏な空気が流れていた。水兵たちのスープを作るための肉にウジ虫がわいているのを水兵の一人が発見する。ところが上官はウジ虫ではない、とつっぱね、スープづくりをやめさせようとしなかった。上官たちはスープづくりを拒否すれば銃殺する、と水兵を甲板に並ばせ、頭からシートをかぶせた。銃が向けられる。しかし、「仲間を撃つのか!」の声に銃の先が揺れ、その銃口は上官に向けられた。ついに反乱が起こったのである。上官は海に放り込まれた。
オデッサ軍港に入ったポチョムキン号は、マストに革命の赤旗を掲げた。ポチョムキン号の勇姿を見るために大勢の市民が丘に作られた大階段に集まってきた。ところが、突如、階段の上からコサック兵が無差別に発砲を始める。老人も母親も、子どもたちでさえ惨殺されていく。ポチョムキン号はその報復に市庁舎に向けて砲弾を放つ。
 翌日、政府軍の軍艦がオデッサ港外に姿を現す。果たして彼らは敵か味方か。緊迫した一瞬。ところが軍艦は発砲してこなかった。彼らもまたポチョムキンの同胞となったのである。そして響きわたる「ウラー(万歳)!」の声。こうして革命の第一歩が記された。
 モンタージュ手法を確立した映画として知られるが、映画に含まれる共産主義的プロパガンダのために海外での公開は検閲を受け、多くの場面がカットされるなど難航した。スターリン時代にはソ連国内でも政治的理由でオリジナル・ネガがカットされるなどしたため、完全なオリジナルは散逸してしまった。1976年に、ソ連映画関係者の努力により世界中に散らばったポジ・プリントから復元版が再構成された。この版はショスタコーヴィチの交響曲からとった音楽がつけられたため、通称「ショスタコーヴィチ版」と呼ばれる。しかし、その後ドイツの作曲家エドムント・マイゼルがドイツ公開(1926年)の際に作曲したスコアが発見され、もともとマイゼルへの作曲依頼者がエイゼンシュテイン本人であることや、伴奏音楽として優れていることから、こちらの版の復元が進み、2005年には元ミュンヘン映画博物館館長エンノ・パタラスの指揮によりこの「マイゼル版」の復元版が完成した。復元マイゼル版では、当時のドイツ公開版にならい、戦艦のマストに掲げられた旗が手彩色作業により赤旗になっている。なお、戦艦ポチョムキンの実物は国内戦期にイギリス軍によって爆破されてしまった。その後、ソヴィエト政府は革命記念艦である同艦を復旧しようと試みたが果たせず、艦はちょうど映画が製作された1925年に解体されてしまった映画に全体が登場する場面があるが、これは模型である。俳優らが艦上を動き回るシーンの撮影は当時のソ連海軍の練習巡洋艦コミンテルンと、当時第8号繋留廃艦と呼ばれ住居や倉庫として使用されていた 旧戦艦十二使徒(当時繋留廃艦)で行われた。両艦ともポチョムキンとはかなり形が異なるが、映画では違和感なく処理されている。艦の全体が映る場面では模型を使っているが、一部で実物の艦艇も登場している。しかし、フィルムの一部場面には1905年当時は存在しなかった弩級戦艦などが映っており、ポチョムキンとは若干ギャップが生じてしまっている。
 日本においては、戦前は共産主義プロパガンダが含まれているとみなされ、政府の検閲により上映禁止措置が取られた。1959年の有志(評論家の山田和夫など)による自主上映運動により、初めて日本の観客が目にし、1967年にようやく劇場で一般公開された。
  オデッサの階段
 この映画で最も印象的とされるのは「オデッサの階段」と言われる約 6分間の場面で、「映画史上最も 有名な6分間」と言われる。特に撃たれた母親の手を離れた乳母車が階段を落ちていくシーンは、ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』などの映画でも引用されている。だが史実によると「オデッサの階段での虐殺事件」というものは存在しない。
 モノクロではあるものの、当時の風景や街並み、人々をそのまま映し出している点で、歴史映像としても貴重な映画だと思います。
 血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)とは、1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では 1月22日)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。
 請願の内容は、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。
当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝は東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想である。このため民衆は皇帝ニコライ 2世への直訴によって情勢が改善されると信じていた行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルクの全労働者18万人中、11万人に及んだと言われ、行進参加者は6万人に達した。軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。
当局は軍隊を動員してデモ隊を中心街へ入れない方針であったが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した[1]。
発砲による死者の数は不明確である。反政府運動側の報告では、4,000人以上に達したと主張される。一 方、より慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。事件の話はモスクワ市内に速やか に広まり、市内各所で暴動と略奪が行われた。






 http://www.alz.jp/221b/archives/000682.htmlで日本語字幕版が観れます。


































































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