フェルマー・ワイルズの定理

 フェルマーの最終定理(フェルマーのさいしゅうていり)とは、3 以上の自然数 n について、xn+ yn= znとなる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない、という定理のことである。フェルマーの大 定理とも呼ばれる。(当時は証明出来なかったので予想と言うべきか)
 フェルマーが驚くべき証明を得たと書き残したと伝えられ、長らくその証明も反例も知られなかったことからフェルマー予想とも称されたが、360年後にアンドリュー・ワイルズによって完全に証明され、フ ェルマー・ワイルズの定理と呼ばれるに至る。
 17世紀のフランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(1601年 ー 1665年)は、古代ギリシャの数学者ディオファントスの著作『算術』を読み、本文中の記述に関連した着想を得ると、それを余白に書き残しておくという習慣を持っていた。それらは数学的な定理あるいは予想であったが、限られた余白への書き込みであるため、また充分な余白がある場合にも、フェルマーはその証明をしばしば省略した(例えばフェルマーの小定理として知られる書き込みを実際に証明したのはライプニッツである)。
48か所におよぶこれらの書き込みが知られるようになったのは、フェルマーの没後、彼の息子サミュエルによって、フェルマーの書き込み入りの『算術』が刊行されてからである(フェルマーの書き込み入りの『算術』原本は今日では失われている)。
 第2巻第8問「平方数を2つの平方数の和に表せ」の欄外余白に、フェルマーは
 立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。
 と書き残した。彼の残した他の書き込みは、すべて真か偽かの決着がつけられたが、最後まで残ったこの予想だけは、誰も証明することも反例をあげることもできなかった。そのため「フェルマーの最終定理」と呼ばれるようになり、プロ・アマチュアを問わず、数多の数学者がその証明に挑んだ。
 プリンストン大学にいたイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズは岩澤主予想(en:Iwasawa main conjecture)を解決するなどして、もともと数論の研究者として有名な人物であった。彼は10歳当時に触れたフェルマー予想に憧れて数学者となったが、プロとなってからは子供時代の夢は封印し、フェルマー予想のような孤立した骨董品ではなく主流数学の研究に勤しんでいた。ところが1986年、ケン・リベットがフライ・セール予想を解決したことにより、フェルマー予想に挑むことは、主流数学の一大予想に挑むことと同義になってしまった。かつての憧れだったものが、今や骨董品どころか解かずには済まされない中心課題の1つになったのである。ワイルズはこのことに強い衝撃を受け発奮、正にフェルマー予想の解決を目的として、他の研究を全て止めて谷山・志村予想に取り組むこととなった。ただしこの際、彼は人々の耳目を集め過ぎることを懸念して、表面的には未発表の研究成果を小出しにすることで偽装し、谷山・志村予想の研究は秘密裏に遂行することとした。
 ワイルズは、代数幾何学(特に楕円曲線と群スキーム)や数論(モジュラー形式やガロア表現、ヘッケ環、岩澤理論)の高度な道具立てを用いて証明を試みたが、類数公式の導出に当り岩澤理論を用いる方向では行き詰まってしまった。そこでコリヴァギン=フラッハ法(ヴィクター・コリヴァギンとマティアス・フラッハの方法)に基づくよう方針転換し、最後のレビュー段階でプリンストンの同僚ニック・カッツの助けを得るまで、細部に至るまでの証明を完璧な秘密のうちにほぼすべて独力でなしとげた(ここまでで7年が経過していた)。彼がケンブリッジ大学で1993年の6月21日から23日にかけて3つの講義からなる  コースで証明を発表したとき、聴衆は証明に使われた数々の発想と構成に驚愕した。
ただし、その後の査読において、ワイルズの証明には一箇所致命的な誤りがあることが判明した。この修正は難航したが、ワイルズは彼の教え子リチャード・テイラーの助けを借りつつ、約1年後の1994年9月障害を回避することに成功した。ワイルズ自身、その時の瞬間を「研究を始めて以来、最も大事な一瞬」と語っている。1994年10月に新しい証明を発表。1995年のAnnals of Mathematics 誌において出版し、その証明は、1995年2月13日に誤りがないことが確認され、360年に渡る歴史に決着を付けた。なお、証明の過程では、まずはコリヴァギン=フラッハ法を用いたが、それでは不十分だと判明したので、以前に採用してから放棄していた岩澤理論を併用することで、最終的な証明が完成した。
 新たな論文は1995年のAnnals of Mathematics に掲載された。このことにより、ワイルズはフェルマー予想を提起以来 360年ぶりに解決した。国際数学連合のフィールズ賞には40歳以下という制限があるため受賞を逃したが、その顕著な業績に対して異例の特別賞が贈られた。
証明のきっかけは、ケン・リベットがフライの楕円曲線はモジュラーで無いことを証明したと聞いたことで、フェルマーの最終定理を証明するには谷山・志村予想を解けばいいと考え、全ての研究を投げて定理を証明することだけに没頭した。3年目に、楕円曲線をガロア曲線に変換して比べたり、岩澤理論を応用したりして、類数公式を考えていたが叶わなかった。ある日、フラッグという学生の論文に出会い、今までの考えを捨てて、その理論を拡張していき、バリー・メイザーの論文から、モジュラーである楕円曲線にモジュラーで無い楕円曲線の変換を夢中で計算し、その夜にフェルマーの最終定理の証明を確信した。この証明には多数の数学者の理論を用いている。この時の息抜きは、池の周りを散歩したり、子供におとぎ話を話すことだったという。                         
 日本人の数学者の名前が出て来る。日本人の誇れる部分でも有る。ノーベル賞には数学が含まれないのは残念で有るが、日本人も色んなところで活躍しているので有る。論文はインターネット上でpdfで公開されているが、凡人には理解出来ないのが残念で有る。BBCのテレビドキュメンタリー番組はYouTubeで観られる。定理の解説の数学専門書以外にも一般向けの書籍や翻訳本も多数販売されて居る。




































































            2009−08−24−432−01−01−OSAKA  



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